17世紀における化学 Clericuzio, ""Sooty Empiricks""

 初期近代の化学・錬金術の概説である。錬金術は理論と実践の両方にかかわる。それゆえそれが学問分類のうちで占めるべき位置をめぐって中世以来議論が行われていた。特にアヴィセンナが金属変成の可能性を否定していたことから、変成の可能性をどう評価するかと錬金術への評価は不可分となった。ロジャー・ベイコンのように錬金術を経験に基づく学知の基礎とみなす者もいれば、トマス・アクィナスのように機械技芸の一種とみなす者もいた。

 16世紀には冶金学の発展(ビリングッチオ、アグリコラ)と、パラケルスス医学による錬金術の利用が錬金術・化学の地位を高めることとなった。パラケルススの医化学に強く反対したアンドレアス・リヴァヴィウスは、化学をアリストテレス自然哲学に従属する学知とするため、『錬金術』というテキストブックを執筆した。この書物にならう形で、17世紀初頭以降錬金術・化学のテキストブックが執筆されていく。ドイツでは化学の講座が設立され、その担当者によって化学研究と教育が推し進められた。一方フランスではパリ大学の医学部が化学教育が医学に入りこむのをきらったため、化学教育は主として大学の外で行われた。特に1640年に設立された王立植物園が化学講義の拠点となる。ここでの講義内容が数多くの教科書として出版された。当初薬剤の調合の仕方など実用性を重視した内容であった教科書は、時を経るにつれて物質の究極的構成要素を探求するような哲学的で思弁的な内容を増やしていった。

 デカルトデカルト主義者の多くは化学に高い評価を与えていなかった。化学物質の性質は機械的な特質によって説明されうるのだから、化学は独立した分野とはみなしえない。これに対してボイルは同じ機械論者でありながら、化学をひとつの重要分野として、自然哲学の一部に組み込もうとした。そのため彼は混乱した用語法を整理しようとした。また化学的原理を実践的に解釈した。確かに個々の化学物質はさらに微細な物質に分解できるかもしれない。そうして第一物質にまでさかのぼって化学的性質を説明できればすばらしい。だがだからといって、私たちに感じられる性質から出発してさまざまな現象を説明することに価値がないわけではない。現状ではむしろこちらからこそ有益な成果を得ることができる。

 このようなボイルのニコラ・レムリに引き継がれた。広く読まれたその『化学教程』のなかで、レムリは機械論的説明を多用しながら、同時に化学原理を用いた説明を排除しなかった。化学的原理は確かに自然から見れば究極的原理ではない。しかしそれは私たちがそれ以上分解できないという観点から、人間にとっての原理とみなしうる。人間はそのような原理を使って化学現象を説明することを断念すべきでないとレムリは考えた。彼の『化学教程』が繰り返し再版され、翻訳されることにより、化学用語と操作の標準化が進み、これが18世紀における化学コミュニティの確立へ道をひらくこととなる。