アクィナス説をめぐる初期の論争 Bakker "La raison et le miracle"

  • Paul J. J. M. Bakker "La raison et le miracle: les doctrines eucharistiques (c.1250-c.1400): contribution à l'étude des rapports entre philosophie et théologie," 2 vols. (Ph.D. dissertation, Katholieke Universiteit Nijmegen, 1999), 170-77.

 アクィナスの実体形相の単数説は直ちに異論を招いた。ドミニコ会士ロバート・キルウォードビは単数説に反対し、その根拠の一つとして聖餐への信仰との不一致をあげた。単一説にしたがうならば、実体変化後にキリストの霊魂が現れることで、他の形相はすべて消滅してしまう。身体の形相も含めてである。となるともはや実体変化後のキリストの身体を認められなくなってしまうではないか。これがキルウォードビの批判であった。

 レシーヌのアエギディウスはキルウォードビに反論した。ウォールドビは上記の批判の他に、単一論を採用すると、聖餐の言葉がキリストの処刑後から復活までの3日間にとなえられた場合に不合理が生じると論じた。そのときにはキリストの質料しかパンに宿らなくなるではないかというのだ[ここの論理はもう少し丁寧に記述できそうである]。このような批判にたいしてレシーヌのアエギディウスは、単一論は聖餐の言葉がいつ唱えられようとも不都合をもたらさないと論じていく。

 一方フランシスコ会士ラ・マレのグイエルムスは、アクィナスの単一説に反対した。単一説に立つと、体corpusという言葉は質料しか意味しない。よって「これは私の体である」は質料しか呼びださなくなってしまう。これにたいしてRichard Knapwellは、アクィナスの擁護に回った。彼はアクィナスによる霊魂の二つの機能の区別の議論をそのまま引き継いでいる。オックスフォードのロバートは、アクィナスを擁護するにあたって、人間は霊魂と質料の結合体なのではなく、霊魂と体の結合体であると論じた。この体は人間の霊魂が宿れるように最高度の完成度を備えたものである。こう考えるならば、体という言葉は質料ではなく、人間の身体を指しうるので、グイエルムスの批判をかわすことができる[しかしこれが単一説を維持しているのかどうかは疑問]。パリのジャンもまたアクィナスと同種の議論によって単一説を擁護した。