処刑と復活のあいだの実体変化 Duba, "Souls after Vienne" #4

Psychology and the Other Disciplines: A Case of Cross-disciplinary Interaction (1250-1750) (History of Science and Medicine Library: Medieval and Early Modern Science, 19)

Psychology and the Other Disciplines: A Case of Cross-disciplinary Interaction (1250-1750) (History of Science and Medicine Library: Medieval and Early Modern Science, 19)

  • William Duba, "The Souls after Vienne: Franciscan Theologians' Views on the Plurality of Forms and the Plurality of Souls, ca. 1315-1330," in Psychology and Other Disciplines: A Case of Cross-Disciplinary Interaction (1250-1750), ed. Paul J.J.M. Bakker, Sander W. de Boer, and Cees Leijenhorst (Leiden: Brill, 2012), 171-272.

 ペトルス・アウレオリの学説は、パリの知的状況を変えた。多くの神学者が彼への批判を開始する。特にフランシスコ会士たちは、アウレオリのスコトゥス批判に反論していく。ナポリ出身のスコトゥス主義者Landulph Caracciolo (c. 1280/1285–1351)もその一人である(206-211)。彼の見解はパリ大学で1318年から19年にかけて行われた『命題集』講義に見ることができる。Caraccioloの基本的立場は、キリストの身体はその理性的霊魂とは別の形相を有するというものであった。まず彼は、公会議の命令が教えるとおり、理性的霊魂は身体の直接的形相とみなさねばならないとする。しかしそれはまた身体から分離可能なものである。よって理性的霊魂と身体は独立の存在(realitas)と理解せねばならない。続いてCaraccioloは身体と霊魂の関係について聖餐式の議論を通じて明らかにしていく。彼の議論はアクィナスの単一説への批判に向かう。教会が教えるところによれば、十字架上でキリストが流した血と水が洗礼と聖餐式の根拠である。単一説にしたがえば、このときのキリストが理性的霊魂を有していない以上、「この血と水はむきだしの質料であったことになる。これは偽りである」。よって十字架上で死んでいたキリストの身体には形相がなければならない。また仮にキリストの処刑から復活までの三日のあいだに実体変化が起きたとしよう。このときに現れるのはキリストの理性的霊魂ではない。なぜならそれはキリストの身体から離れているから。だがそれは第一質料でもない。なぜならアクィナスによれば第一質料は形相抜きで存在できないからである。よって呼びだされるのは形相と結合した質料でなくてはならない。この形相はまたキリストの生前から存在した形相でなくてはならない。なぜならその事によってのみ、呼びだされた身体がキリストの生前の身体と数的に同一だといえるからである。よって呼びだされるのは、「質料とそれにともなう身体性の形相(forma corporeitatis)で、この形相はかつて存在しいまもそこにあるものである」。Caraccioloはこれ以上議論を深めることはなかった。たとえば彼は理性的霊魂と身体性の形相のほかに、感覚的霊魂があるかどうか論じなかった(これはニューカッスルフーゴーの立場であった)。またさまざまな形相がいかにひとつの実体のうちで関連しているかも論じていない。