カルダーノにおける精神 Giglioni, “Mens in Cardano" #1

  • Guido Giglioni, “Mens in Girolamo Cardano,” in Per una storia del concetto di mente, ed. Eugenio Canone, vol. 2 (Florence: Olschki 2007), 83–122.

 カルダーノをめぐる長尺の論文である。再度読みなおす必要がないように、丁寧にまとめていきたい。まずは83ページから94ページまでである。

 ジローラモカルダーノの哲学のなかでも、精神(mens)、ないしは知性(intellectus)(そして霊魂animus)をめぐる学説はもっとも複雑なものの一つである。彼は1545年に『霊魂の不死性について』を出版し、ポンポナッツィの著作の出版以後とくに問題となっていた霊魂の不滅性をめぐる当時の論争に参戦した。彼は最終的に霊魂は不死であるという回答を与えたものの、この問題を扱うのがいかに困難であるかは十分わきまえていた。まずアリストテレスのテキストが不明瞭である。また人間においてのみ認められる例外的事象であるため扱いが難しい。さらに霊魂は非物質的である以上、感覚から出発した議論を立てにくく、永遠の事物であるがゆえにその原因を知るのは困難である。だがたとえ困難があろうとも、この問題についてはあくまで感覚にもとづいて議論を進めるべきとカルダーノは考えていた。難解な問題を感覚を超えたより深遠な手段を通じて説明しようというのはナンセンスだからである。このため彼は著作の最後の節で、霊魂の不死性を支持すると思われる経験的根拠を挙げている(愛憎、笑い、預言など)。

 霊魂の不死性の証明の困難さをしめすため、カルダーノは不死性に異議をとなえる議論を大量に列挙することから『霊魂の不死性』を開始した。そのなかでカルダーノは、霊魂の不死性に力点を置きすぎることは災厄をもたらすという議論を紹介する。災厄とは死後の霊魂の運命をめぐるカトリックルター派の対立からくる対立を指していた。不死性への数多くの異議は、カルダーノのなかにあった緊張関係をしめしている。人間は可滅的であるという感覚と、不滅であるという感覚がカルダーノのなかでせめぎあっていた。これは個別的な多と全体的一のあいだの調停をいかになすかという問題でもあった〔多は消えるが、一は残るという直感がカルダーノにはあったということか?〕。この緊張関係がカルダーノの思想に独自性をあたえていた。

 カルダーノはまた、人間の生がもつ政治的で社会的な側面に着目することからも人間霊魂の不死性をしめそうとしていた。「宗教がなければ都市はなく、都市がなければ人間には平和がなく、宗教は霊魂の不死の観念がなくては成立しない」。倫理的な側面からの正当化もあった。霊魂が肉体の消滅とともに消えるならば、徳というのは意味を成さないだろう。肉体が消えればすべてがなくなるならば、どうして感覚の誘惑にこうして有徳に生きようとするだろうか。どうやらカルダーノにとって霊魂の不死性とは、理性によって討議すべき問題であると同時に、それがなければ彼の生から意味が奪われてしまうような差しせまった問題であったようである。

 カルダーノは過去のさまざまな哲学者の議論を利用している。だが主に使用されたのはプラトンアリストテレスであった。プラトンに関しては、まず霊魂が生の原理(ratio vitae)であるなら、定義上霊魂は不死になる。しかしこれは同時に不死の範囲が人間だけでなく生命を持つすべての生物に拡張されることを意味する。これは世界霊魂の学説にいたる。これにより人間の不滅性は救われるが、生の原理である霊魂自体は果てしなく拡散してしまうのである。また存在論的にすぐれた存在は長く生きるはずだから、人間の霊魂は不滅であるという議論にたいしては、第一質料こそ長く存在するという異議を呈することができるという。霊魂が自己運動するというプラトンの議論についてカルダーノは、霊魂に特有の運動というのは位置運動ではなくて、対象から惹起される種類の運動であると反論する。最後に永遠に変わることのない正義の原則が霊魂に刻まれているがゆえに、霊魂が不死と考えられるという説明に対しては、人間が社会を維持するために保持している倫理原則というのは真正の正義からはほど遠いという反論がなされる〔メランヒトンを意識しているのだろうか?〕。

 カルダーノプラトン理解をまとめるならば、霊魂は不死であり、それは人間と動物に共通で、世界霊魂に由来するということになる。このプラトンの考えと調和する考えをアリストテレスも抱いていたとカルダーノは論を進める。それは『動物発生論』にある文章を根拠としたもので、ここからカルダーノアリストテレスはなにか神的で、天に由来する力が自然のうちで作用していると認めていたとする。人間の霊魂はこの力の一部である。しかし同時にカルダーノは世界に浸透する世界霊魂と人間の霊魂を区別する。前者は自分が何を行っているか意識していないが、後者は意識しているというのだ。

 一方、カルダーノアフロディシアスのアレクサンドロスを手厳しく批判する。アレクサンドロスによれば霊魂は可死的である。不滅の知性というのは神であり、これは最高度に完成された人間がアクセスできる対象に過ぎない。カルダーノは反論する。それならば大部分の人間は何のために生きているのか。彼らはただ苦しむためにいるのか。このような考えはアリストテレスにふさわしくない。
 だがカルダーノアレクサンドロス(それゆえポンポナッツィ)批判の主眼目は、アレクサンドロスが精神を認識作用に還元したことにあった。アレクサンドロスにとって精神とは神であり、これが知識を与える。人間が望むのことのできる不死とはこの神を知ることによって達成される種類の不死に限られるという。しかしこれはなにを意味するのか。人間が神になるというのだろうか。これはばかげているし、帰結としては人間が不死であると同時に可死になってしまう。このような奇跡は聖餐式ですら起こっていない。このような不合理な説明をとるよりも、霊魂に不死でなければ現世においてこれほど惨めに生きるわけがわからないと述べたパウロにならうべきである。

 論争の発端であるポンポナッツィについては、精神を天の知性に制限してしまい、人間霊魂を質料の形相の一種に格下げしてしまったとカルダーノは非難している。

 自らの解釈をつくるにさいし、カルダーノが依拠したのは一つにはシンプリキオスであった。彼はテミスティオスやアヴェロエスよりも受動知性が可滅的であると認めている分すぐれている。しかしカルダーノが重要視したのはテオフラストゥスであった(テオフラストスの学説はテミスティオスによる『霊魂論』パラフレーズとプリスキアノスの著作から再構成することができる)。カルダーノ本人の見解が彼のテオフラストス解釈にあらわれていると考えて問題ない。それによればそれぞれの人間の個別性を保証するのは可能知性である。これは認知可能なあらゆる形相を可能的に秘めている。アヴェロエスは可能知性を人間には宿らないと考えた点で間違っていた。またテミスティオスは能動知性を人間のうちに宿るものと考えた点で過ちをおかした。だがカルダーノ本人がいかに能動知性を理解していたかははっきりしない。彼は少なくともそれは神ではないと考えていた。いずれにせよ人間が持つ個別的な霊魂とは可能知性のことでありこれは肉体とともに滅びる。残された能動知性は不滅である。しかし可能知性消滅後の能動知性は可能知性が知るにいたった個別的事柄をもはや保持していないという。