カルダーノにおける個と全体 Giglioni, “Mens in Girolamo Cardano” #2

  • Guido Giglioni, “Mens in Girolamo Cardano,” in Per una storia del concetto di mente, ed. Eugenio Canone, vol. 2 (Florence: Olschki 2007), 83–122.

 95ページから101ページまで。

 霊魂の不死性の問題を検討するにあたり、カルダーノは先行する哲学学説の伝統に大きな注意を払っていた。彼の考えでは大部分の哲学者は不死性を蓋然的ではあれ正しい学説とみなしていた。『テオノストン』では、タレスが不死性を発見し、ヒポクラテスがそれを宇宙論的な議論で裏づけ、プロティノスがそれを体系的に扱ったとされる。『わが人生の書』では次のように言われている。「そしてこの問題について今まで論じた人々のなかでは、私は自然な仕方で語ったつもりであるし、プラトンアリストテレスプロティノスとも一致し、さらに理性と教会の教義にも一致していると思う。だがプラトンには厳粛さが、アリストテレスには秩序、プロティノスには目的と報酬についての議論が欠けている。これを発見したのは私ではなくアヴィセンナであるが、かれの意見には心から賛同する。哲学者の意見のなかでは、最も真実らしいので」。ガレノスは医師としてあくまで霊魂は身体を必要とすると考え、霊魂の非物質性を否定した。だが彼の力点は不死性の否定にあったわけではない。むしろエーテル状の霊魂が不死であると考えていたのだ。『テオノストン』では、ヒポクラテス宇宙論的な議論により、霊魂の不死性を証明しようという試みがなされている。すべての元素が循環し、何一つ消滅しないなら、やはり霊魂も不死であろうというのだ。だがこのような考えは、霊魂の個別性を消し去りはしないか。命の源となる力が太陽から世界に浸透しているとしよう。だが太陽には意識がないのに、霊魂に意識はある。よって個別的霊魂は太陽から来られないのではないか。

 以上から次のような問題が浮かびあがる。人間とは個別的な個体なのか。それともより上位の知的存在の一部なのか。まずカルダーノは、アリストテレスによれば霊魂はエンデレケイアなのか、エンテレケイアなのかという論争に触れたうえで、霊魂は運動ではなく、自律したもの(res)として理解すべきであるとする(エンテレケイア路線)。そのうえで次のように考える。人間には少なくとも四つの水準がある。栄養摂取、感覚、理性、そして精神である。このうちからだの形相が栄養摂取と感覚をつかさどる。知的形相が理性をつかさどる。これらはすべて可滅的である。最後に知的霊魂の形相として能動知性がある。これは永遠である。カルダーノはこの最後の精神が、身体をつくることを否定する。それは他の霊魂により身体が完成されたあとに外部からくるのだ。知性が質料の可能態から引き出されると考えてはならない。

 カルダーノの理解は基本的にアヴェロエスである。霊魂は人間が能動知性とつながるための準備を行う。霊魂が能動知性(精神)とつながることによって、永遠の知性を人間は得ることができる。この事態をカルダーノと壺の光の比喩を用いて説明する。壺に光がさしている。このとき三つの要素が認められる。光、壺に差し込む光、そして壺である。壺が壊れると何が起こるか。最初の光は消滅しない。またこれは生成もしていない。壺の光は壺が出現することによって生まれたものである。だが壺が壊れたからといって、この光がなくなるわけではない。最後に壺は生成し消滅する。これらが三つがそれぞれ、能動知性、能動知性から人間に与えられる知性、そして霊魂に対応するとカルダーノは考えた。〔この後認知のメカニズムが論じられる〕