思惟属性における個体 Della Rocca, Representation and the Mind-Body Problem in Spinoza

Representation and the Mind-Body Problem in Spinoza

Representation and the Mind-Body Problem in Spinoza

  • Michael Della Rocca, Representation and the Mind-Body Problem in Spinoza (New York: Oxford University Press, 1996), 28–38.

 スピノザが思惟属性での個体をどう理解していたかを考察する箇所を読む。『エチカ』での個体の定義は、延長属性での個体についてのものである。思惟属性での個体をどう理解すべきかは明確には書かれていない。そこで延長属性での定義から、思惟属性での定義を推測せねばならない。
 延長属性での個体とは、その構成諸物体が、それらが共有している運動と静止の割合を保存しようとする傾向性をもつような物体のことである。これを並行論の前提から思惟属性にあてはめると次のようになる。思惟属性での個体とは、それを構成する諸観念が、それらが共有しているなんらかの特徴を保存しよとする傾向性をもつような精神のことである。この特徴とはなにか。それはコナートゥスの定義から「我々の身体の存在の肯定」(3p10d)だと推測される。よって思惟属性のもとでの個体とは、「それを構成する諸観念が、それらの総体がもつ身体の存在の肯定という性質を保存しよとする傾向性をもつような、精神のことである」となる。この結論はあいまいである。しかしこれはスピノザの議論そのものに説明が欠けているところからくる。運動と静止の割合や身体の存在の肯定というような鍵となる概念について、彼は十分な説明を与えていないからだ。

科学主義と、通底する立場の存在 金山「武谷三男論 科学主義の淵源」

昭和後期の科学思想史

昭和後期の科学思想史

 力作である。武谷三男は著述家としてのその長い経歴のなかで、じつにさまざまな問題について発言してきた。その膨大な著作群を読みとくことで、いくつもの論点を共通してささえている彼の根本的な考え方をあきらかにしている。その考え方とは、「科学主義」である。武谷によれば、人間はがんばって自然のあり方をあきらかにしていけるし、またそうしてきた。ここでの人間というのは、あらゆる制約から自由に、客観的に自然を探求する者を指す。制約とは資本や政治の論理といった「非科学的」な要因である。これは裏をかえせば、経済的・社会的・政治的な要因は科学にとって本質的ではないということである。ここから、武谷には科学を社会的に構成される営みとしてとらえる視点が欠けることになる。また社会的要因への着目の弱さは、科学的に真なる認識を倫理的に善ととらえる短絡を招く。ここからさらに、真なる認識を獲得せんとする科学者のあるべき姿は、ほとんど定義的に善きものとなる。要するに、武谷の著述には科学を批判的に考察する回路がない。以上が、彼の認識論、技術論、原子力に関する立論、そして人権概念の使い方の検討から説得的にしめされる。
 科学主義の検討から外れるのが第9節である。ここで著者は武谷が当時の社会主義国家をどう評価したかを検証し、次のように結論する。武谷は現存する社会主義にある問題は、周囲の資本主義勢力の妨害によるところが大きいと考えていた。この考えは、彼の科学主義と同型である。なぜなら現存の科学によって生じている問題は、非科学的な要因による妨害によると彼は考えていたからである。
 たしかに同型である。ではこの同型性はどう解釈されるべきか。ひとつの見方は、この同型性は偶然の産物とするものだ。現存する社会主義ある問題を資本主義側の干渉に帰責することはある時点まで多くの論者によって行われていた(のではないだろうか?)。武谷もこの見方をとった。それがたまたま彼が科学にたいしてとっていた見解と同型のものであったのだ。
 別の解釈もでき、著者はこちらをとっているように思われる。それは上記の同型性には関係があるとするものである。「科学論・技術論で通底していた彼の認識論的・実践論的立場が、そのまま[社会主義をめぐる]国際情勢をみる上でも持ちこまれている」(41ページ)。
 これはいい加減に読むならば、武谷の科学主義の観点が、その国際情勢論に持ちこまれたと読める。しかし科学の本質について認識と、社会主義の現状認識は別の話であり、前者が後者に直接影響するとは考えにくい。そのようにはおそらく著者も考えていない。なぜならここでは、「科学論・技術論で通底していた彼の認識論的・実践論的立場」と書かれているからである。おそらく著者は次のように主張している。武谷の科学主義の背後には、それをささえるより一般的な理路がある。この理路をたどって国際情勢を論じると、先述の社会主義評価になる。
 もしこの読みが正しいなら、ではその一般的な理路とはなにかが問われるだろう。それはおそらく「なんらかの内的一貫性をそなえた機構は、外部からの妨げがないかぎり、その本来のあり方を達成し、その達成は善である」のようなものとなる。
 この私の解釈が正しいかはわからない。しかし私には、もし上記の同型性のあいだに関係があると主張するならば、科学主義と国際情勢判断をともに支えるこのような非常に一般的な前提の存在を想定せずにはいられない。さらにいえばこのような前提を想定するより、同型性を偶然の産物として説明したほうがよいのではないかと思えてくる。
 本論文は思想史の論文のひとつのモデルとなりうる。大量の史料を読み通したうえで、そこにある一貫した論理をとりだすという手法がみごとに実践されているからだ。くわえて論述の質もきわめて高い。議論の運びは流れるように進む。個々の文章表現にも工夫がなされており読み手を楽しませる。それでいて凝り方が嫌味を感じさせるところまでいかない抑制がある。良質な研究の見本として分野を問わず多くの人にすすめたい。

誰がモーセ五書を書いたか Malcolm, "Hobbes, Ezra, and the Bible," #1

Aspects Of Hobbes

Aspects Of Hobbes

 『リヴァイアサン』や『神学・政治論』になぜあれほど過激な聖書解釈が現れることになったのか。その文脈を復元する重要論文である。論旨を正確におさえておかなくてはならない。まず最初の2節の内容をまとめる(383–398ページ)

 モーセ五書を書いたのはモーセではない。エズラである。この考えは17世紀の後半から、18世紀のヴォルテールにいたるまで、聖書の権威を否定しようとするラディカルな知識人にくりかえし利用された。この危険な説の源泉として名指しされたのは非神聖なる三位一体とも呼ぶべき著者たちであった。すなわち、スピノザ、ラ・ペイエール、ホッブズである(リチャード・シモンの名を加えてもよい)。だが3人のうちで誰が最初にこの説を唱えはじめたかを確定するのは容易ではない。スピノザはおそらく、中世ユダヤ教の文献の吟味から、モーセ五書の真正性の否定(以下モーセ五書を書いたのはモーセではない、という説をこのように呼ぶ)を引きだした(ただしその後にラ・ペイエールとホッブズを参照した可能性は高い)。ホッブズはラ・ペイエールの著作について耳にし、そこから真正性の否定の議論をつくったのかもしれない。しかし彼が独自にこの結論に到達した可能性もある。ラ・ペイエールが真正性の否定の議論をどこから学んだかは不明である。このように結論ははっきりしない。だがこのはっきりしなさこそが重要なのだ。1648年から1656年の短期間のうちに、3人の著者が同種の結論に達した。この事態は、3人のあいだでの単線的な影響関係を想定するよりも、むしろ3人がそのような結論を引きだすことを可能にする共通の状況が存在したということを示唆しないだろうか。モーセ五書の真正性の否定につながるような一連の考えが、3人の全員に利用可能だったということではないだろうか。じつに、そのような考えは利用可能であった(続く)。

新カント派のはじまりのはじまり Beiser, Genesis of Neo-Kantianism, ch. 1, #1

The Genesis of Neo-Kantianism 1796-1880

The Genesis of Neo-Kantianism 1796-1880

 新カント派の歴史を扱う書物から、フリースをとりあげた章を読む。今回は前半部である。

 ヤコブ・フリードリヒ・フリース(1773–1843)の名前が新カント派の歴史のなかで言及されることは近年まれである。しかし彼こそは、ヘルバルトとならんで新カント派の創設者であった。フリースは誰よりもはやくカントへの回帰を提唱していた。その立場から非常にするどく思弁的観念論を批判していた。彼はどの観念論者よりもカントに忠実であった。彼の影響は死後も続いた。死の直後には、 Ernst Friedrich Apelt のもと、イェナにフリース学派が誕生した。さらに1903年にはゲッティンゲンで Leonard Nelson の指揮下に新フリース学派が生みだされた。フリースが新カント派の歴史で果たした役割は三つである。第一に彼はカントへの心理学的なアプローチの創始者であった。また新カント派のなかで科学的アプローチを重視する最初の人物であった。第三にカントの超越論的観念論を人類学的に解釈することを主導した。この章では『新理性批判 Neue Kritik der Vernunft』(1807年)にいたるまでのフリースの活動を概観する。

カントの発見

 フリースは1792年から95年までニースキーのモラヴィア兄弟団のセミナリーで教育を受けた。フリースはまずラインホルトの『根元哲学』に導かれてカントに取りくんだ。そこでラインホルトの方法とカントの方法のあいだの大きな齟齬に気がついたというのである。ただしここでフリースが読んだのはカントの「懸賞論文」と『プロレゴメナ』であった。そこでは分析方法が使われており、それはたしかにラインホルトの総合的方法とは異なるものであった。もしフリースが批判期のカントに最初に出会っていたら彼の反応は異なっていたかもしれない。そこでは総合的方法が用いられているからである。いずれにせよ、ここにフリースの目標がたてられた。批判哲学の元来の方法である分析的方法をラインホルトや、観念論者に抗して復興させようというのだ。さらにこの分析的方法は、経験科学としての心理学にもとづくべきものとされる。私たちの日常経験の観察から、そこで用いられている能力を分析し(区分し)、それを通じてカントが批判書で展開する能力論を経験的に基礎づけるのである。これはいわば、批判哲学に「懸賞論文」の分析的方法を適用する試みであった。

心理学の正当化

 1796年にライプツィヒで、フリースはいくつかの重要な草稿を作成している。そこでまずフリースは、認識とは心の状態なのだから、これは心理学によって経験的に探求されねばならないと宣言する。しかしだからといって彼が経験の条件であるような、超越論哲学の第一諸原理と、経験的に得られる知識を混同したわけではない。むしろ彼はこの二つを鋭く分けた。第一諸原理は経験的知識によって論理的に正当化はされない。しかし経験的知識は第一原理の発見に必要だという。ここからフリースは、超越論哲学の原理を、経験からでなく、直観される原理からひきだそうとするラインホルトやフィヒテの方法を批判した。心理学という経験科学によって、超越論の原理を見つけるという手法は、G.E. Schulzeによるカントとラインホルト批判に応えて考えだされたものと思われる。しかしそうすると超越論の原理は結局証明できないのだろうか。フリースは、心理学は原理を論理的に証明はできないものの、その原理がなければ人間は感覚したり思考したりできないはずだというかたちで、その必要性をしめす事はできると考えていた。この考えが後年発展させられる。

初期の心理学プログラム

 フリースは自らの研究を予備研究(propadeutic)と呼んでいた。それはさまざまな認識の種類を発見し、それがなにに由来し、それがいかなる能力に属し、またそれらが互いにいかなる関係に立つかを確定する。この予備研究は、彼のいう「普遍的で経験的な心理学」の準備をなす。それはすべての人間に観察され、また内的経験の観察によって明らかになるような、心で働く一般的な法則をあきらかにしようとするものである(内的経験の究明に専念するので、心身問題は問わない)。このような経験科学がどうして超越論の原理を提供できるかというと、そもそもカントの超越論哲学は心理学的な基礎をもつからである。超越論の原理が経験の条件であり、経験が人間を離れてはないならば、その原理は人間の能力のうちに基礎をもたねばならない。[37–38ページは理解が行き届かないので割愛]

イェナでの出会い

 1797年にフリースはイェナに移る。そこでフィヒテの講義を受けて失望する。新カント派の歴史にとって重要なのは、同地でフリースがカール・クリスティアン・エルハルド・シュミッドにであったことである。彼は最初期のカント主義者であり、ラインホルトやフィヒテの批判者であった。カントを心理学的に解釈していく点で、シュミッドとフリースの目標は一致していた。そのため彼らは手を取りあい、フリースはシュミッドの雑誌に寄稿することになる。またイェナでフリースは、Alexander Nicholaus Scherer に師事し、化学を学ぶ。そこで彼はカントに反して、化学のうちに数学的法則を発見しようとしたのだった。

医学への進出

 いろんな経緯があり、フリースは1803年に医学についての論文を出版する。彼によれば、科学における説明のパラダイムは、事象の物理的な説明であり、これは数学的説明にほかならない。このパラダイムにのっとる生理学を構築することはまだほとんどできていない。しかしフリースはそれは原理的には可能だと考えていた。この点で、彼はカントと異なる。カントは有機体については機械論的な説明を与えることはできないとしばしば言明していた。とはいえ現状では、医学はより実践的でなければならない。数学的説明を与えようとするのではなく、観察に基づき治療に必要な知見を蓄積すればよい。大切なのは、哲学的・数学的レベルの説明と、経験的なレベルの説明を混同しないことである。まさにこの混同をおかしているのがシェリングであった。彼は自らの一般理論を具体的な患者に適用している。しかしそれは危険である。実際、シェリングにはこれにより恋人の娘を死に至らしめたという疑惑があった。よりすぐれた生理学はジョン・ブラウンのものである。観察にもとづいたものだからである。フリースの理解によれば、ブラウンの理論の中核にあるのは、興奮性(Erregbarkeit)の概念である。興奮性とは身体のある部位が、どの程度外部からの刺激をうけ、またその刺激に対してどの程度反応するかを指す。身体の各器官はそれぞれの興奮性をもち、その総体として人間がある。そのため個々の人間にはそれぞれ適切な刺激の量がある。よって刺激が少なすぎたり多すぎたりすると病気になる。医学論文にあらわれたシェリングとの対立はより本格化していくことになる。

日常的実践のなかの意味―初期近代歴史学の動向― Perl-Rosenthal, "Generational Turns"

  • Nathan Perl-Rosenthal, "Comment: Generational Turns," American Historical Review 117 (2012): 804–813.

 初期近代の西洋と北アメリカを対象とする、比較的若い(研究歴が浅い)歴史学者たちの仕事にみられる傾向を探る論文である。関心は三つの主題に集まっている。コミュニケーション、輸送、そして物質文化である。これらの主題は、「プラグマティック」な視点から追究される。それはいかにして起こっていたのか?問いは、膨大な量のアーカイブ史料を駆使して解明される。
 この傾向を「新しい経験主義」として警戒する年長世代の研究者も存在する。それは過去そのものの客観的再構成を目指しているかのようで、言語論的転回や文化的転回以後の理論的洗練を忘れているのではないかと。しかし過去の関心を新たな世代は忘却したわけではない。彼らは意味の探求を断念してはいない。しかしそれを見いだそうとする場所が変わってきているのだ。
 彼らは「実践」という単語を多用する。これにはいくつかの含意がある。まず文化を行動を通じて分析するという意味がある。第二に、繰り返される行動に焦点をあてるという含意がある。さらにより深い次元では、純粋な構築主義と強固な実在論(や唯物論)の中間に位置しようという意図を表明している。さらに、「実践」という単語をめぐってピエール・ブルデューのまわりで戦わされた論争には関与はしないという意味合いもある。
 繰り返される行動からいかに意味が生成されるかという関心は新しいものではない。それはアナール学派が一世紀近く前に提唱していた。しかし1970年代以降の文化史は、一度きりの例外的な事件に関心を寄せてきた(マルタン・ゲール、猫の虐殺、メノッキオ)。ここからもう一度日常の出来事に回帰しようと新たな世代はしている。日常的な実践への関心はまた、それ自体としてきわめて豊かな含意をもった史料から、行為に埋めこまれた象徴的意味をほりおこそうという動向から距離をとることも意味している。むしろ一見すると象徴的意味をになっていないような日常的な行為が、いかに意味を生成しているかがあきらかにされる。そこで用いられる史料は、人口票であったり、写本のカタログであったり、ビジネスのための手紙であったりし、これは文化史家たちが探ってきた豊かさと複雑性を秘めた史料とは異なっている。
 日常への関心と並び、新たな歴史学の動向を特徴づけるのは、物理的で物質的な条件が、過去の意味世界に与える影響である。同時に、過去の人々が自分たちの日常的な実践によって作りだした意味の世界によって、自分たち自身を閉じ込めてしまっていることも関心の対象となる。
 なぜこのような傾向性が生じているのか。ひとつは90年台から2000年代の前半にかけて、地域名を冠した研究が増えたことがあげられるかもしれない(大西洋研究、地中海研究、グローバル・ヒストリー、海洋の歴史などなど)。ここから若い歴史家たちは、そのような地域単位で人々を束ねている実践とはどのようなものに関心をもったのかもしれない。また70年代から80年代生まれの歴史家たちは、革命がありえない世界に生きていた。社会的・政治的問題は、(やや退屈ながら)細かい実践によって取りくまれる問題となっていた。ここから彼らは、なぜそれは起こったのかという具体的な問いに向かったのかもしれない。

無神論者デカルト Verbeek, "Descartes and the Problem of Atheism"

  • Theo Verbeek, "Descartes and the Problem of Atheism: The Utrecht Crisis," Nederlands archief voor kerkgeschiedenis 71 (1991): 211–223.

 ライデン大学神学部教授のヴォエティウスとその弟子スホーキウス(1614–1669)は、デカルト無神論者にして懐疑論者と批判した。なぜだろうか。まず無神論に関する論点からみていこう。ヴォエティウスが危惧したのは、神の存在をはっきりと否定する直接的無神論ではなかった。むしろ神は存在しないとか神の存在は確実ではないということを示唆する間接的無神論が警戒の対象だった。後者のカテゴリーには、ヴァニーニやレモンストラント派が入る。同じ範疇にデカルトが入るのは不思議ではない。
 スホーキウスがデカルト無神論者とみなすのは、デカルトによる神の存在証明が不十分だからだ。デカルトの証明は、もっぱら神についての生得的な観念にもとづいている。しかしスホーキウスによれば、無限なものについての観念を有限なものがもつことはできない。むしろ神の存在証明は、自然をみてその原因としての神を認識するという宇宙論的なものでなければならない。しかしデカルトは宇宙の存在を懐疑にさらしてしまう。よってデカルトは一種の無神論者なのだ。またデカルトの証明は、私たちがもつ観念の対象はなんであれ存在するという帰結を招く。これは個人の想念から神を見いだすことを可能とする考えである。ここから教会による媒介を否定する「熱狂主義 Enthusiasm」が支持されてしまう。さらに、デカルトは観念の原因を問うている。これは観念を一個の存在者とみなすことにほかならない。すると神の観念は存在者であり、これ自体が神となり、つまりは自らのうちに神ありと主張する熱狂家たちの主張に近づいてしまう(彼らはさらに自分たちは神だと主張しているわけだが)。
 次に懐疑論である。絶対的な確実性を求め、蓋然的な知としてのアリストテレス主義を放棄するデカルトは、実際には懐疑を克服するに十分な議論を提出しておらず、結局は懐疑にとらわれてしまっている。デカルトデカルトの支持者が見いだしていると主張している真理とは、彼らの妄想に過ぎない。
 この論争からうかがえる対立の構造は次のようなものだ。ヴォエティウスは、信仰の源泉は神の言葉のみであり、理性が信仰の規範となることはありえないと考えた。だが同時に神は、理性をもちいて世界を探求する者に自らをあらわしている。よって理性は聖書のメッセージを補強することはできる。この補助的な役割を果たす理性は、一般通念にもとづくものでなければならなかった。それは聖書の権威をおかさずにそれを補強するつつましい役割をはたす。このために彼は通念に依拠するアリストテレス主義を支持した。ここからヴォエティウスのデカルトへの反発も理解できる。理性を通念から切り離し、理性だけを通じた神の認識の可能性を探ることは、聖書の権威をおかすことになる。こうして改革派がドルトレヒト会議でつくりだした正統的神学が危機にさらされてしまうというのだ。

ノート

 結論部でデカルト主義、熱狂主義、聖書解釈、媒介としての教会の関係についての考察をより深めるべきであった。

デカルトにおける堕落した理性の専制 Woo, "Voetius and Descartes"

  • B. Hoon Woo, "The Understanding of Gisbertus Voetius and Rene Descartes on the Relationship of Faith and Reason, and Theology and Philosophy," Westminster Theological Journal 75 (2013): 45–63.

 ヴォエティウスとデカルトが理性と信仰の関係についてどう考えたかを扱う論文である。この問題を論じるにあたり、ヴォエティウスはまずソッツィーニ主義者たちに言及する。彼らは信仰の基盤を聖書ではなく、理性に求めているというのだ。ここでデカルトの名は言及こそされていないものの、彼が理性主義の側に分類されているのはあきらかである。これにたいしヴォエティウスは堕落以降の理性にはそのような役割は担えないと主張する。信仰はあくまで聖書である。だからといって聖書が与える真理が、理性的な考察と衝突するわけではない。する場合は、理性に問題がある。
 ヴォエティウスはまたイエズス会士たちにも反論する。彼らは、プロテスタントは「聖書のみ」をとなえて、なんの原則もなく聖書を読んでいると批判していた。これにたいしヴォエティウスは、プロテスタントの聖書解釈は理性を活用したものだと反論する。ここでの利用の用い方は、たとえばアリストテレスの論理学に依拠していた。それゆえヴォエティウスは、アリストテレス哲学を排除するデカルト哲学を、伝統的な神学を破壊するものとして攻撃するのである。
 これにたいしてデカルトは、ヴォエティウスは理性を用いた議論を行っていない。権威にのみ依拠している。しかし主張の正しさを決するのは理性であると反論する。理性を超えた信仰箇条ですら、それを誤った推論から支持すれば大きな罪となる。またデカルトは、理性にもとづく哲学と神学は無関係であり、自らの哲学が神学に害を及ぼすことはありえないと主張した。だがヴォエティウスの立場からすれば、普遍的懐疑は神の存在への疑いにほかならない。この懐疑は理性のみによっては払拭できない。なぜなら理性は堕落してしまったからだ。よって理性だけにもとづいて神の存在を疑うことは、神の存在の否定につながる。無神論につながる。