日常的実践のなかの意味―初期近代歴史学の動向― Perl-Rosenthal, "Generational Turns"

  • Nathan Perl-Rosenthal, "Comment: Generational Turns," American Historical Review 117 (2012): 804–813.

 初期近代の西洋と北アメリカを対象とする、比較的若い(研究歴が浅い)歴史学者たちの仕事にみられる傾向を探る論文である。関心は三つの主題に集まっている。コミュニケーション、輸送、そして物質文化である。これらの主題は、「プラグマティック」な視点から追究される。それはいかにして起こっていたのか?問いは、膨大な量のアーカイブ史料を駆使して解明される。
 この傾向を「新しい経験主義」として警戒する年長世代の研究者も存在する。それは過去そのものの客観的再構成を目指しているかのようで、言語論的転回や文化的転回以後の理論的洗練を忘れているのではないかと。しかし過去の関心を新たな世代は忘却したわけではない。彼らは意味の探求を断念してはいない。しかしそれを見いだそうとする場所が変わってきているのだ。
 彼らは「実践」という単語を多用する。これにはいくつかの含意がある。まず文化を行動を通じて分析するという意味がある。第二に、繰り返される行動に焦点をあてるという含意がある。さらにより深い次元では、純粋な構築主義と強固な実在論(や唯物論)の中間に位置しようという意図を表明している。さらに、「実践」という単語をめぐってピエール・ブルデューのまわりで戦わされた論争には関与はしないという意味合いもある。
 繰り返される行動からいかに意味が生成されるかという関心は新しいものではない。それはアナール学派が一世紀近く前に提唱していた。しかし1970年代以降の文化史は、一度きりの例外的な事件に関心を寄せてきた(マルタン・ゲール、猫の虐殺、メノッキオ)。ここからもう一度日常の出来事に回帰しようと新たな世代はしている。日常的な実践への関心はまた、それ自体としてきわめて豊かな含意をもった史料から、行為に埋めこまれた象徴的意味をほりおこそうという動向から距離をとることも意味している。むしろ一見すると象徴的意味をになっていないような日常的な行為が、いかに意味を生成しているかがあきらかにされる。そこで用いられる史料は、人口票であったり、写本のカタログであったり、ビジネスのための手紙であったりし、これは文化史家たちが探ってきた豊かさと複雑性を秘めた史料とは異なっている。
 日常への関心と並び、新たな歴史学の動向を特徴づけるのは、物理的で物質的な条件が、過去の意味世界に与える影響である。同時に、過去の人々が自分たちの日常的な実践によって作りだした意味の世界によって、自分たち自身を閉じ込めてしまっていることも関心の対象となる。
 なぜこのような傾向性が生じているのか。ひとつは90年台から2000年代の前半にかけて、地域名を冠した研究が増えたことがあげられるかもしれない(大西洋研究、地中海研究、グローバル・ヒストリー、海洋の歴史などなど)。ここから若い歴史家たちは、そのような地域単位で人々を束ねている実践とはどのようなものに関心をもったのかもしれない。また70年代から80年代生まれの歴史家たちは、革命がありえない世界に生きていた。社会的・政治的問題は、(やや退屈ながら)細かい実践によって取りくまれる問題となっていた。ここから彼らは、なぜそれは起こったのかという具体的な問いに向かったのかもしれない。