デカルトにおける堕落した理性の専制 Woo, "Voetius and Descartes"

  • B. Hoon Woo, "The Understanding of Gisbertus Voetius and Rene Descartes on the Relationship of Faith and Reason, and Theology and Philosophy," Westminster Theological Journal 75 (2013): 45–63.

 ヴォエティウスとデカルトが理性と信仰の関係についてどう考えたかを扱う論文である。この問題を論じるにあたり、ヴォエティウスはまずソッツィーニ主義者たちに言及する。彼らは信仰の基盤を聖書ではなく、理性に求めているというのだ。ここでデカルトの名は言及こそされていないものの、彼が理性主義の側に分類されているのはあきらかである。これにたいしヴォエティウスは堕落以降の理性にはそのような役割は担えないと主張する。信仰はあくまで聖書である。だからといって聖書が与える真理が、理性的な考察と衝突するわけではない。する場合は、理性に問題がある。
 ヴォエティウスはまたイエズス会士たちにも反論する。彼らは、プロテスタントは「聖書のみ」をとなえて、なんの原則もなく聖書を読んでいると批判していた。これにたいしヴォエティウスは、プロテスタントの聖書解釈は理性を活用したものだと反論する。ここでの利用の用い方は、たとえばアリストテレスの論理学に依拠していた。それゆえヴォエティウスは、アリストテレス哲学を排除するデカルト哲学を、伝統的な神学を破壊するものとして攻撃するのである。
 これにたいしてデカルトは、ヴォエティウスは理性を用いた議論を行っていない。権威にのみ依拠している。しかし主張の正しさを決するのは理性であると反論する。理性を超えた信仰箇条ですら、それを誤った推論から支持すれば大きな罪となる。またデカルトは、理性にもとづく哲学と神学は無関係であり、自らの哲学が神学に害を及ぼすことはありえないと主張した。だがヴォエティウスの立場からすれば、普遍的懐疑は神の存在への疑いにほかならない。この懐疑は理性のみによっては払拭できない。なぜなら理性は堕落してしまったからだ。よって理性だけにもとづいて神の存在を疑うことは、神の存在の否定につながる。無神論につながる。