原武史、『滝山コミューン 1974』

滝山コミューン一九七四

滝山コミューン一九七四

 この重要で、かつ慎重な評価が必要になる著作については、時間と力量があればいずれもう少し詳しく書きたいと思います。

 私が見つけ出した限りでは、次のishigameさんによる記事が本書の内容を一番的確にとらえています。すばらしい。

 本書が独自なのは、「1972年以後、政治の季節は終わった」という見解に疑問を呈している点です。政治の季節が終焉し、台頭してきたのは団地に基盤を置く私生活主義、あるいは生活保守であったというのが、これまで多くの研究者が採用してきた時代把握でした。ウェブ上でよく取り上げれる名前としては、小熊英二宮台真司東浩紀といった人が挙げられるでしょうか。

 原氏はこの時代把握について、「断じてそうではあるまい」と否定します(16頁)。「断じてそうではあるまい」というのは言いすぎであると私は思います。ただ、『滝山コミューン 1974』で扱われている事例が、通説の修正をせまるものであることは確かだと思います。

 その事例というのは、なんと著者の原氏自身が小学校4年生から小学校6年生にかけて受けた教育です。このため、本書は研究書でありながら、それがそのまま自伝にもなっているという特殊な性格を帯びています。

 原氏が通っていた学校では、小学校4年生のときに赴任してきた片山(仮名)という教師によって、「学級集団づくり」という新たな手法が持ち込まれ実践に移されます。この「学級集団づくり」とはソ連の学者の理論の影響下に、日教組の下部組織が提唱したものでした。

 その目標は、「大衆社会の中で子どもたちの中に生まれてきている個人主義自由主義意識を集団主義的なものへ変革する」ことでした*1

 児童に集団主義を植えつけようとする教育が、日教組の指導のもとに、団地から通う児童が圧倒的多数を占める小学校で実行に移されたわけです。団地でこのような教育が行われたのは、当時の団地に革新勢力を支持する人々が多く住んでいたためだと原氏は分析しています。

 原氏が述べている実態が正しいとすると、これは通説と合致しません。まず、先にも述べたように、1972年以降は政治の季節は終わったという通説と相容れません。私生活主義の中心とみなされていた団地こそ、共産主義寄りの政治姿勢を鮮明にしていた日教組によって提唱された教育に協力していたわけです。この場合、団地の母親たちが中心的役割を果たしたようです(ただ母親たちについての分析は、あまりなされていない)。

 もう一つ、こちらは研究者で支持する人はいないものの、なぜか広まっている通説。これについては、安倍晋三氏の発言を引用するのがよいかもしれません。

 来年、敗戦から六十年を迎えるが、占領下で成立した教育基本法憲法から我々は脱しなければならない。

 教育現場で発生している様々な問題の原因は、戦後体制の価値基準が損得を越えるもの――公、家族の価値、国を守る――を全てマイナスとして教えてきたことにある。

 我々はこの価値の基本である教基法を変えなければならない*2

 この安倍氏の発言には、通常保守派に分類される人が唱える典型的な教育論がしめされています。簡単に言ってしまえば、戦後教育の問題点は、個の尊重のみを強調してきたことだというわけです。

 しかしすでに引用したように、日教組が提唱した「集団学級づくり」は「大衆社会の中で子どもたちの中に生まれてきている個人主義自由主義意識を集団主義的なものへ変革する」ことを目指していました。個人主義は否定されています。そこで原氏は次のように書きます。

 2006年12月に教育基本法が改正される根拠となったのは、GHQ連合国軍総司令部)の干渉を受けて制定されたために「個人の尊厳」を強調しすぎた結果、個人と国家や伝統との結びつきがあいまいになり、戦後教育の荒廃を招いたという歴史観であった。

 だが果たして、旧教育基本法のもとで「個人の尊厳」は強調されてきたのか

 問い直されるべきなのは、旧教育基本法の中身よりも、むしろこのような歴史観そのものではなかったか(277頁)。

 以上からも分かるように、『滝山コミューン 1974』は自伝的記述を中心に、従来の学説をひっくり返そうとする野心的な著作です。一読の価値ありです。

 しかし、私が今まで書いてきたことは、研究者目線のつまらない分析であって、本書の真髄はishigameさんが指摘されているように、「得体のしれない思想に侵食されていく恐怖を(友人だと思っていた子も感化されていたり!)見事に追体験させてくれる」点にあります。実際、原氏の筆運びはみごとで、読みはじめるともうとまりません。

 あと特筆すべきは、原氏の記憶力!これには驚かされます。いくら自分がつけていた日記があるからといって、小学生であった当時の気持ちをここまで再構成できるものでしょうか。私なんて昨日の記憶すらあいま(ry。

 ただ、一つの学術書としてみた場合、その記述の客観性がやはり問題になると思います。特に(これまたishigameさんが指摘されていることですが)、新たな教育手法を持ち込んだ当の片山という人物に行った取材の結果を、原氏は表にほとんど出していません。おそらく、片山には片山の言い分があり、それと自分の記述を併記してしまえば、構成が破綻すると原氏は考えたのだと思います。

 そのような判断は、記述の迫真性を増すという点では効果をあげているものの、客観性に対する信頼度は損なっていると思います。客観性なんてなんぼのもんじゃいという意見もあるかとは思います。しかし、研究書として判断する場合は、やはり客観性を確保するための手続きが十分にとられているかは気になるところなのです。

 何だか長くなってしまいました。『滝山コミューン 1974』は通説の修正をせまり、団地の実態調査という今後開拓されるべき分野の可能性を示したという点で高く評価されるべきです。また、本書は日教組が何を目指してどのような教育を行っていたかを教えてくれます。「日教組はけしからん」と言う人にこそ読んでほしい。最後に、なによりも読み物としてすばらしい。研究書でありながら、優れたノンフィクションである。これはなかなか達成できることではないと思います。

 とりあえずこんな感じで。

*1:「全生研」のあゆみ」、全生研常任委員会編、『全生研大会基調提案集成』、第2集、明治図書出版、1983年所収。『滝山コミューン 1974』、48頁より引用。

*2:http://www.nipponkaigi.org/1300-kyoiku/1350-02taikai161129.htmlより抜粋。

『滝山コミューン 1974』についてその他参考にした記事

小田実訳:イーリアスの新訳

すばる 2007年 07月号 [雑誌]

すばる 2007年 07月号 [雑誌]

 なんと今月号の雑誌『すばる』には、小田実氏による『イーリアス』第1巻の翻訳を掲載されています。小田実氏は東京大学西洋古典学を専攻しているので、ホメロスギリシア語で読むことができるのですね。

 冒頭部の部分は以下の通りです。暇な人は呉訳や松平訳と比較してみましょう。さらに暇な人はギリシア語と。

怒りを歌ってくれ、女神よ、ペーレウスの子アキレウス
破滅の怒りを。それはアカイア人に数知れぬ苦しみをもたらし、
雄雄しい勇者の魂をあまた冥王のもとへ送り、
残されたむくろはただ犬ども、あるいは、
ありとあらゆる鳥どもの餌食となった。

 しかしこの新訳、残念ながら完結することはないようです。

私は今病床に伏している。手術不可能の末期ガンなので、英語で言うなら"His days are numbered"の状態にいる。
(中略)
来年春に完了を目指してギリシア語から訳してきていた(Oxford Classical Textによる)ホメーロスの「イーリアス」の第1巻Aを、完訳は間違いなくかなわないので、「すばる」に掲載させていただくことにした。学者の訳とはちがった文学者の訳も意味があると考えるので(136頁)。

 残念です。

柄谷行人、『日本精神分析』

日本精神分析 (講談社学術文庫)

日本精神分析 (講談社学術文庫)

 文藝春秋社から2002年に出された本の文庫化です。柄谷氏がひさしぶりに文学作品にもとづいて評論活動を行っています。取り上げられている作家は、芥川、菊池寛、谷崎ですね。

 印象的だったのは第3章の「入れ札と籤引き」です。ここで柄谷氏は菊池寛の「入れ札」という作品の読解から、無記名の秘密選挙によって代表が選ばれる代表制民主主義について論じています。以下で引用するのは、普通選挙の開始によって代表制に生じた変化について論じた箇所からのものです。

 こうした議会への不満が、普通選挙、つまり、代表制民主主義とともに出てきたことに注意してください。それまで、人々は議会が「人民」を代表しているとは思っていなかった。実際、それは一定の階級を代表していました。

 ところが、普通選挙以後には、議会は人民――すべての階級――を代表するものだと見なされる。であれば、すべての階級が議会に裏切られていると感じるほかないでしょう。そこで、人々は「真の代表」を求めることになるわけです。

 「真の代表」は、議会による討議などからは出てこない。だから、議会や議員による内閣を拒否する軍部のクーデターが起こると 、大衆が喝采するということになる。人々は、密室の中の主権者〔秘密選挙は各人が密室に入って投票する〕であるよりも、、拍手喝采によって一人の主権者(レヴァイアサン)に従うことを選ぶのです(160-61頁)。

 もちろん、今日においてそれがくりかえされるとは思いません。しかし、議会制民主主義への不満が恒常的に続くことは間違いないのです(160-61頁、強調引用者)。

 議会は民意を反映していないのだから、自分は有権者に直接信を問うと宣言したのが日本の前首相でした。あのとき有権者郵政民営化を支持したのでしょうか。そうではなくて、有権者が望んだのは、自分たちがとにもかくにも何らかの形で代表されることだったのかもしれません。
 なんて下品はことは、柄谷氏は2007年に書かれた文庫版解説でも述べていません。これは完全に私の妄想です。ただ、上のような文章を読んで、昨年の選挙のことを考えるなという方が難しいです。なんにせよ、議会制民主主義から独裁者が生まれる事例として、昨年の衆議院選挙を分析してみることは有効かもしれません。いや、すでに政治学の方ではやられているのでしょうか。