神の姿の捏造と複製 水野「キリストのプロフィール肖像」

  • 水野千依「キリストのプロフィール肖像 構築される「真正性」と「古代性」」ヒロ・ヒライ、小澤実編『知のミクロコスモス 中世・ルネサンスのインテレクチュアル・ヒストリー』中央公論新社、2014年、100–149ページ。

 「スキャンダラスな神の概念」のなかで加藤喜之がしめしたように、人間が超越神を理解できるかできないかは、キリスト教神学にとって避けてとおれない問題であった。もし神があますところなく人間に理解されてしまっては、神秘が消失し、信仰も消え去るだろう。だが神がまったく理解不可能であれば、やはり信仰は成りたたないだろう。では神はどの程度まで理解できるのか?

 水野千依「キリストのプロフィール肖像」はこの問いが図像表現のうちでいかに答えられてきたかをさぐった論考として読める。神は見えるのか?とりわけその神が救世主であるイエス・キリストである場合、この問はより先鋭なものとなる。それが神である以上、あますところなく見えてしまってはだめだ。それは魂が救済されたときにのみ許される。だがまったく許されなくていいのか。福音書受肉したイエスが人々のあいだで活動するさまを描きだしている。こうして人として世にいたイエスの顔を描かないですませられるだろうか。

 このジレンマを切り抜ける一つの伝統があった。キリストの顔は人の手によっては描きえない。だがキリスト自身に由来する図像ならば、そこに救世主の相貌があってもよいのではないか。たとえば生前にイエスの顔を拭いた布に彼の顔が残っていたならば、その布に由来する図像は神の真の相貌を伝えるのではないか。これを「アケイロポイエートス(人の手によらざる)」イメージという。もちろんアケイロポイエートスなど現実にはなく、実際には人がこれはアケイロポイエートスだよと言いながらキリストの相貌を描くのだ。神を呼びだしながら神を見ようとする人間の戦略がここにある。

 本論文はこの試みがルネサンスに現れたキリストの横顔という表現形式のうちでいかに行なわれたかを追跡したものだ。ビザンツ帝国の崩壊のなかで高まるイコン熱のなかで、新たに出現した芸術家たちは、古代のメダルより範をとった人物の横顔を描いた図像に、キリストをあてはめようとしていた。そのキリストの顔が、真性であると主張するために彼らはなにを行ったか。詳細は本論に譲るとしておおよそ以下のようなことが主張された。

 まずその顔はキリストが人としてこの世界にいたときに描かれていなくてはならない。それはまもなくエメラルドなりブロンズに刻まれる。これが長きにわたって西洋とは離れたところに埋もれていた。それがなんらかの過程を経て近年西洋世界にもたらされた。それを誰かが写した。残念ながら元来のエメラルドなりブロンズは失われてしまった。だがその写しは今やメダルに刻まれたり、ちらしに刷られたりして、私たちのもとを流通している。これにより私たちはキリストの真の相貌を目のあたりにする。なにまだ信用できない?よろしい。実はキリストの相貌を描写した書簡を、イエスと同時代のローマの行政官がしたためており、それが現在まで伝わっている。この描写と描かれたキリストは一致する。となるとこの相貌が古代に由来する真性のものであるのはますます疑いようもない。

 もちろんすべて捏造だ。キリストと同時代の書簡というのはどこかの修道院で作成されたものである。エメラルドやブロンズが選ばれているのはその耐久性からだ。そのような素材に刻まれていれば長い期間忘却されていても元来の形状をとどめているだろう。もちろんそれはキリストの姿が写されたあと速やかに行方不明になっていなくてはならない。そんなものはないのだから。歴史家アンソニー・グラフトンは文書を捏造する者たちがろうしたレトリックをあとづけた。まさに同種のレトリックが神の相貌を観ようとする者たちによって活用されているのがここでは確認される。

 だがここに図像ならではの新しさがある。そうやって救われた図像がいま流通しているとして、それが真の相貌であるのを保証するのはなんなのか。印刷された図像が元の図像と同一であるのはなぜか。それは印刷物が機械的複製の産物だからだ。活版印刷は「アケイロポイエートス(人の手によらざる)」なものだからこそ、「古代に由来するキリストの真の肖像が経てきた『代替=複製』プロセスを更新する」(126ページ)。複製技術だけが芸術のアウラを救う。

 偽造された文書を用い、贋作者特有のレトリックを駆使し、さらには最新の複製技術の特性を活用することで、芸術家たちは己の描く図像の真正性と神聖性を確保しようとした。見えないはずの神をそうして見ようとしたのである。キリストの横顔は、人の手になるアケイロポイエートスであり、それはたしかにルネサンスのコスモスの産物なのであった。

 このコスモスのうちでの伝統の捏造は、より北の地ではまったく別の相貌を帯びる。読者はそれを小澤実「ゴート・ルネサンスとルーン学の成立」のうちに見るだろう。