公に豊かな利益をもたらす神学 梶原「中世末期におけるドミニコ会教育と大学」

  • 梶原洋一「中世末期におけるドミニコ会教育と大学 アヴィニョン「嘆きの聖母」学寮の事例から」『西洋中世研究』第5号、2013年、123-138ページ。

 中世の教育システムといえば、大学神学部を頂点とした階層構造を思いうかべる人が多いのではないだろうか。だがそのような一般通念から一歩踏みこんでみると、事態がじつにこみいったものであったことがわかってくる。なによりも神学教育自体が一枚岩でない。神学者といっても在俗の神学者と托鉢修道士の神学者がいる。両者のグループが対立している。また高度な神学教育は大学の神学部が専有していたわけではなかった。修道会の要する学院が高度な学識を身につけた神学者を輩出していた。学院はイタリアのように長いあいだ大学に神学部がなかった場所では神学教育の中枢であった。このこみいっていて、しかも刻々と状況に応じて変化する教育現場のなかにわけいらねば、紋切り型の理解を超えられない。中世神学を歴史的に理解することもおぼつかない。

 素人がそのような現場に入るためのもっとも優れた素材は、現場で残された史料を直に検証している歴史家の作品に接することである。『西洋中世研究』の最新号にそのような論考が掲載されている。ドミニコ会内部の教育機関と大学との関係に新たな視点をもたらそうとするものだ。近年の研究は、ドミニコ会フランシスコ会が大学教育と有していたつながりを限定的に解釈する傾向にある。托鉢修道会は独自の教育機関をもっていたため、大学の神学部は学位授与という形式的意義しかもたなかったというのだ。だがそれだけなのか。形式以上のつながりが両者に見られる事例はないか。

 そこで著者が着目するのが、アヴィニョン大学に1491年に設立された大学学寮である「嘆きの聖母」学寮である。これは大学の学寮とはいっても、アヴィニョンドミニコ会修道院の敷地内に設置された。設立のイニシアティブをとったのは、アヴィニョン大学神学部教授にして、修道院長のバルテルミ・ド・リゲティスであった。彼が設立時に作成した規約を検討すると、学寮の設立目的がわかる。それは8歳から16歳までのドミニコ会の年少者を受けいれ、修道会の規約や修道士にふさわしい生活習慣、哲学と神学、文法と論理学教授することであった。ドミニコ会の内部教育機関である。このような初等教育向けの学寮をバルテルミが設立しようとした背景には、当時ドミニコ会が直面していた問題があった。当初のドミニコ会の教育システムはラテン語文法を習得した人物を受けいれるものとして設計されていた。それが托鉢修道会修道院の数が増すにつれ人材の奪いあいとなり、ラテン語未拾得者もとりこんで教育をほどこさざるをえなくなった。しかしこのような基礎教育にあたる人手は慢性的に不足していた。この状況に対応するための施策として、学寮の設立も理解できる。

 以上の事実からはこの学寮の事例からもドミニコ会と大学との関係は希薄であったという結論が導かれるように思われる。しかし学寮の後見人に目を向けるなら、そこにアヴィニョン大学のメンバーが名を連ねていることがわかる。バルテルミはこの後見人たちに、学寮をそれを収容している修道院から防護してくれるよう期待していた。もう一度いうと、ドミニコ会修道院内部にあるドミニコ会士のための教育機関ドミニコ会から守るよう、ドミニコ会外部の大学に要請していたのである。しかしどうして大学の人々がドミニコ会教育機関の自律性を守ってどういう益があったのか。一つは学寮生たちが後見人たちに捧げる祈祷が「霊的」報酬として機能していた。もう一つにそもそもバルテルミが学寮にドミニコ会士向け教育機関以上の役割を付与していたことがある。彼がいうに、

鑑みるに、公res publicaに豊かな利益をもたらす文法、論理学、哲学、詩学、神学の学識を持った人々の数が、遺憾ながら極めて少ない。その大きな理由は、彼らが貧しさにあえぎ、神と自然があたえたその才能を手仕事mecanicas artesに費やしたり、田畑で働くことを余儀なくされているということである。このようなことが起こらぬよう…(136-137ページ)

バルテルミにとって学寮は知を公のために伝授する場であった。このような大学と共通する目的を持っていたからこそ、彼は大学側に学寮の保護を期待できたのだと思われる。

 こうしてみると、ドミニコ会の内部教育が大学と切り離しては理解できないことがみえてくる。ドミニコ会で自律的な基礎教育を行うためには、会外の大学人の関与が必要であった。その自律性はしかもドミニコ会修道院に対抗して守られねばならないものであった。自律性を求められた学寮は、托鉢修道院林立というさらに広範な当時の状況への応答として構想されていた。こうして著者は托鉢修道会教育を、会内で閉じたシステムとしてではなく、内外の複層的な勢力・状況との関係のうちで構築されたものとしてとらえる必要性を説くのであった。