増大する博士需要 梶原「中世後期南フランスにおける大学神学部と托鉢修道会」

 昨日とりあげた論文と同じく、こちらも中世後期の大学のありように神学教育の観点からせまった作品である。問題となっているのは、14世紀後半以降に神学部の設置が各地の大学に認められていくという状況である。それ以前はパリ、オックスフォード、教皇庁学院にしか教皇権は神学部と学位授与権を認めていなかった。この制限のは以後には教義の統一を保とうという教皇庁の意図があったと思われる。だがしだいに托鉢修道士の博士号への受容が高まりはじめる。学位は役職を得るための重要な指標となる。都市からの説教の依頼は学位を取得しているものにいく。報酬も学位取得者にはずまれる。このため諸侯や都市が修道士のパリでの学位取得費用を肩代わりするということも起こっていた。このような博士需要の高まりを背景に、各地の托鉢修道士たちが現地の大学における神学部の設置を求め、そこでの学位取得を可能にしようとしていた。これが実現されはじめたのが14世紀後半であった。

 だがそうやってできた神学部は、実態としてはすでにその都市で行なわれていた托鉢修道会の教育システムに大きく依存していた。というより実際問題としては、托鉢修道会の教育システムに学位授与権を付与したものが「神学部」と呼ばれている大学が多数であった(ただしドイツのように托鉢修道会の基盤が弱かった地域では在俗聖職者教員と勢力が拮抗したらしい)。この論文はそうやって大学システムのうちに入りこんできた托鉢修道会士からなる神学部に、既存の大学組織が示した反応を検証している。簡単にまとめるなら、トゥールーズ大学では、それ以前からの大学側の神学教育への深い関心を引き受けて、神学教育における公平性を確保しようとする施策が幾度となく実行に移された。一方神学への関心が元来薄かったモンペリエでは、神学部への警戒感が示されるにとどまり、神学教育にほかの大学組織が関与することはまれであったという。

 大学の神学部が托鉢修道会に独占されていたという特徴が多くの大学で共通に認められるとしても、その神学部の大学内における位置づけは地域ごとに大きく異なっていたと予想される。この点を検証し、中世大学における神学教育のあり方を描きだすためには、大学ごとへの更なる個別的調査が必要となる。

 というような大きな議論の骨格とならんで、この論文は中世の神学教育の現場にあった予想外の実態について多くを教えてくれる。目についた点を列挙しておこう。

    • パリ大学神学部での学位取得システムは、フランス管区の修道士が学位を取得しやすいように設計されていた。
    • マギステル昇格式inceptioは討論に基づく試験である。しかしこれには儀礼的な正確が強く、むしろ謝金や祝賀会の自主開催といった費用負担を受験者が負えるかどうかが問題となっていた。
    • 神学の博士を取得するためには一学年度バカラリウスとして『命題集』を講義せねばならない。だが抜け道があった。「夏期バカラリウス」である。夏のバカンス期間中に『命題集講義』をしてしまうのである。これだと約2ヶ月で済ますことができる。この抜け道が不平等の温床となる。トゥルーズ大学のある規約には「夏期講義(特別講義)が、資質というよりも単に有力者の口利きでしばしば許可され、争いや不和を招いている」とある。
    • 大学団の行進やらその手の式典でどの学部が最初に行進するかとか、誰が上席に座るかとかがやたら細かく規定されていることがある。