ルネサンス期イタリアの大学における神学教育

The Universities Of The Italian Renaissance (Johns Hopkins Paperback)

The Universities Of The Italian Renaissance (Johns Hopkins Paperback)

  • ルネサンス期イタリアの大学』Paul F. Grendler, The Universities of the Italian Renaissance (Baltimore: Johns Hopkins University Press, 2002), 353–92.

 ルネサンス期イタリアの大学を包括的に扱った体系書のなかから、神学教育を論じた部分を読みました。大学が形成された当初、教皇権は神学の学位を与える権利をパリとオックスフォード大学にしか認めていませんでした。このため托鉢修道会は修道士を教育するための自前の制度を用意することになりました。この制度の頂点に立っていたのが各修道会のstudium generaleというもので、そこではパリ大学神学部の教育カリキュラムをまねて、聖書と『命題集』を用いた教育が行われました。イタリアの特徴はこの修道会のストゥディウムが大学と結びつかなかったことにありました。

 パリとオックスフォードの独占体制は14世紀に崩れます。パリの神学者唯名論公会議首位説に教皇権はいらだっていましたし、修道会や大学を運営するコムーネが神学学位の授与権を各大学に認めるよう要望していました。こうして1300年代の半ばから神学部がイタリアの大学にも生まれはじめます。1349年に最初の神学博士が誕生する直前にはフィレンツェの町で鐘が鳴らされて祝われたそうな。

 しかし神学部が組織されてもなお、それが法学部や学芸・医学部のような大学の中核を形成することはありませんでした。神学や形而上学の教授職は多くても4つか5つ程度しか設けられませんでした。また教育の場所は多くの場合、各修道会のストゥディウムであり、教授も修道会のメンバーから任命されていました。つまりイタリアの神学教育というのは、修道会がストゥディウムで行ってきた教育が、学位授与権限を備えた大学という制度に緩やかに接続されたものという性質を持っていました。

 最も体系的に神学教育を導入したヴェネチア支配下パドヴァ大学を見てみましょう。教皇の勅書が1363年に神学部を設立したのちにも、大学では神学の教育というのは行われていませんでした。行われていたのはストゥディウムにおいてで、しかもそこでの教育に携わっていた人々は大学の教授として教えていたのではありませんでした。1433年に学芸・医学部の学生たちがヴェネチア政府に神学教授の設立を求めます。しかし拒否。1439年にパドヴァの政府も司祭に神学教授を含めた新たな教授職設立のために資金を工面してくれるよう頼むもののこれも失敗。

 しかし1442年にヴェネチア政府が形而上学の教授職をつくり、ドミニコ会士を任命します。これはトマス主義形而上学教授職として定着し、その後も常にドミニコ会士がつきました。続いて74年にスコトゥス主義形而上学教授職がつくられ、アウグスティノ隠修道会の人物が任命されました。76年にヴェネチア政府は当時起こっていた学生数の減少を食い止めるために、スコトゥス主義神学教授職を設立。さらに90年にはトマス主義神学教授職をつくりました。これら4つのポストについた教授たちは修道会の出身であったものの、ストゥディウムではなく大学の施設内で教育を行いました。トマス主義のポストは常にドミニコ会士が、スコトゥス主義のポストは最初のアウグスティノ隠修道会士を除けばつねにフランシスコ会士がつきました。

 これらの教授たちの俸給は1509–10年の時点で次のようなものでした(単位はフロリン)。

 論理学と倫理学の数字に涙がとまらないのはさておき、神学関係の教授たちがそれなりの俸給を得ていたことが分かります。

 パドヴァはさらにイタリアの大学ではじめて聖書の講義を行う教授職を設立しました(1551年)。これもまた大学を充実させ名声を高めたくさんの学生を呼ぼうというヴェネチア政府の政策の一環であったと考えられます(1546年に公会議で聖書講義の授業をつくるようにという指示が出されていたものの、この命令がヴェネチア政府の決断に影響を及ぼしたとはあまり考えられないそうです)。こうしてパドヴァ大学は5人というローマをのぞけばイタリアで最大の神学教育者を抱えた大学となりました。

 1424年から1532年のあいだに408人程度が神学の学位を取得しています。143人のフランシスコ会士、101人のドミニコ会士、76人のアウグスティノ隠修道会士、54人のカルメル修道会士、43人の聖母マリアの下僕会士、24人の教区の聖職者、2人のHumiliati、1人のCelestine、1人のベネディクト会士を含んでいました。