スピノザと聖書外の史料(3) Grafton, "Spinoza’s Hermeneutics"

  • Anthony Grafton, "Spinoza’s Hermeneutics: Some Heretical Thoughts," in Scriptural Authority and Biblical Criticism in the Dutch Golden Age: God's Word Questioned, ed. Dirk van Miert, Henk Nellen, Piet Steenbakkers, Jetze Touber (Oxford: Oxford University Press, 2017), 177–196.  

 Graftonが示している第3のことは、エズラの活動時期とペルシア帝国の存続期間についてのスピノザの見解は、ともに聖書外の史料に基づいていたということである。

 スピノザエズラが『創世記』から『列王記下』までの文書を編纂した歴史家だと考えていた。スピノザエズラは『列王記下』の末尾で書かれている出来事の直後の時代を生きていたと考えていた。『列王記下』の末尾には、バビロンの王エビル・メロダクが、ユダヤ王ヨヤキンを捕囚から解放したとある。この記述を根拠にスピノザは、『列王記下』の「作者はエズラより前の時代の人物ではないことがはっきり分かる」(吉田訳、上巻386ページ)としている。ここからスピノザが、ヨヤキンが解放された時期より後、しかも解放から比較的近い時代にエズラが生きていたと考えていたことが分かる。このヨヤキンの捕囚は、当時の学者の計算では紀元前6世紀初頭に起きたと考えられていた(今でもそう考えられている)。

 Graftonは、このスピノザの理解は問題を生じさせると指摘する。問題はこの理解を『エズラ記』第7章1節の記述と比較することから生じる。『エズラ記』第7章1節には「これらのことの後、ペルシアの王アルダクセルクセスの治世に、エズラという人がいた」とある。この「アルダクセルクセス」は通常、アルダクセルクセス一世と理解される。彼が統治していたのは紀元前5世紀中頃である。そうだとすると、『エズラ記』第7章1節によるとエズラが活動していたのは紀元前5世紀中頃であり、ヨヤキンの捕囚が起きた紀元前6世紀初頭とは大きく食い違ってくる。

 スピノザはこの問題についてどう考えていたのだろうか。Graftonは直ちに思い浮かぶ解決策として、ラビの年代記がしてきたように、ペルシア帝国の存続期間を極度に圧縮するというものを挙げる。ラビの年代記では、『ダニエル書』第11章の記述がペルシアには王が4人しかいなかったと読めることから、ペルシア帝国の存続期間を短く見積もることが行われていた。標準的な年代記の『セデル・オラム・ラッバ』によると、存続期間はわずか34年である。このようにペルシア帝国の期間を圧縮すれば、アルダクセルクセス一世の治世をヨヤキンの捕囚に近づけることができるだろう。

 Graftonはしかし、この可能性を否定する。スピノザは実際には、ラビの伝統が主張する短いペルシャ王朝の存続期間を否定し、それを230年以上と見積もっていた。ここからスピノザは『エズラ記』の著者がエズラであることを否定していた。というのも、『エズラ記』にはペルシア帝国の最後の時期までの記述が含まれており、これを書くほどにエズラ(彼はスピノザによればアルダクセルクセス一世の時代に生きていた)が長生きしたとは考えられないからである(『神学・政治論』第10章、吉田訳下巻28ページ)。

 Graftonは次に、どうしてスピノザエズラの活動時期を聖書の編纂年代を特定するにあたり『神学・政治論』の第10章で次のように書いている。ヨヤキンが捕囚から解放された直後だと考えたのかという問いを立てる。ここにエズラの活動期間を置かねばならないと示唆する聖書の記述は存在しない。Graftonは手がかりを『神学・政治論』第10章の次の文章に見いだす。

詩篇』がまとめられ、5巻に分けられたのも、この第二神殿でのことだろう。ユダヤフィロンの証言によれば、『詩篇』第88章はヨヤキン王がまだバビロンの牢獄にとらわれれていた頃に作られ、89章は同じ王が自由を得た時に作られたという。私は、それが当時の通説だったからか、あるいは信頼できる他人から受け取ったのでない限り、フィロンはこのようなことを決して言わなかっただろうと思う。(吉田訳下巻12ページ、一部変更)

 ここでスピノザは、『詩篇』の一部の成立時期を、ヨヤキン王の捕囚と捕囚後に位置づけるフィロンの証言を紹介している。Graftonはスピノザはこの証言を元に、エズラがその他の聖書の編纂を行ったのも、ヨヤキン王の捕囚後であったと結論づけたと主張する。Graftonの挙げる根拠は、ここでスピノザが「私は、それが当時の通説だったからか、あるいは信頼できる他人から受け取ったのでない限り、フィロンはこのようなことを決して言わなかっただろうと思う」と述べていることである。スピノザのここでの書き方は非常に強調が置かれているし、また彼がこのように史料の信頼性について主張するのも稀であるからである。

 Graftonは、すでにGebhardtらが示したこととして、ここでのスピノザが言及している著作は『時の書』であり、これはヴィテルボのアンニウスが作成した偽作であったことを指摘する。しかもスピノザはこの著作をヴィテルボのアンニウスの著作から直接引いているのでもなかった。スピノザは『時の書』を、それがヘブライ語に訳されて、16世紀のユダヤ人学者であるアザリア・デ・ロッシの『目の鏡』に収録されたヴァージョンで読んでいた。この著作は、ペルシア帝国の存続年数についてスピノザと同じ主張をしている。そこでアザリアは第二神殿時代(これの初期ペルシア帝国があった)の歴史は、聖書のみからは再構成できないと主張した。そのうえで彼は、エウセビオスや他の(聖書よりも後代の)キリスト教の資料を活用して、ペルシア帝国の存続期間を34年とするのは短すぎると結論づけた。スピノザはこの考えを受け入れていた。そしてこの考えは、スピノザの聖書解釈の原則とは一致していなかった。なぜならアザリアはこの結論を聖書外の史料を使って導いていたからである。

 Graftonは最後に、どうしてスピノザは擬フィロンの証言をそれほど信頼したのかについて考察する。Graftonによると、スピノザは聖書が語っているのは、ユダヤ人の過去にについてごく僅かな断片しか提供しないものであった。それは王国の滅亡後に編纂された敗者の歴史だった。このような観点からすると、スピノザにはフィロンの証言が貴重なものとうつったに違いない。