- Anthony Grafton, "Spinoza’s Hermeneutics: Some Heretical Thoughts," in Scriptural Authority and Biblical Criticism in the Dutch Golden Age: God's Word Questioned, ed. Dirk van Miert, Henk Nellen, Piet Steenbakkers, Jetze Touber (Oxford: Oxford University Press, 2017), 177–196.
Graftonが示している第二のことは、ヘブライ語聖書写本の歴史に関するスピノザ『神学・政治論』第9巻の議論の一部が、明示こそされていないものの、ヤコブ・ベン・ハイム・イブン・アドニヤに依拠しているということである。
このことを示すためにGraftonは、『神学・政治論』の第9巻からまず次の文を引く。
たとえばタルムードには、マソラ学者たちに採用されなかった多くの読みが記録されている。それらは明らかに、あまりにも多くの箇所でマソラ学者たちの読みからかけ離れているので、あの迷信深いボンベルク聖書の校訂者などは、ついに序文でこう認めなければならなかったほどである。「そしてここでは、既に述べた答えを繰り返すことしかわたしたちにはできない。つまり、マソラ学者たちに従わないのがタルムードの習わしだったということである」。(吉田訳、上巻429–430ページ)
ここでスピノザが言及しているのは、いわゆるボンベルク聖書の第2版(1524–1525年)に、ヤコブ・ベン・ハイム・イブン・アドニヤが付した序文である。スピノザはこの聖書の1618年から19年にかけて印刷された版を持っていた。
次にGraftonは、同じく『神学・政治論』の第9巻、イブン・アドニヤからの引用の直後で、スピノザが旧約聖書のヘブライ語写本では、ある箇所について欄外注で示される別の読みの可能性が常に1つしかない(つまり、採用された読みと欄外にまわされた読みの2つしか読みは示されない)ことを説明しようとしている箇所に着目する。このことをスピノザは2通りの仕方で説明しており、そのうちの2つ目は次のようなものである。
一つの箇所に2つを超える読み方が見つからないのを、わたしが当然だと思っている2つ目の理由は、そもそも写本を作った人たちの参照した聖書原本の数が、かなり限られていたと思われる体。おそらく2部か3部で、それ以上ということはないだろう。タルムードの中の小品『ソーフェリーム編』第6章では、そうした欄外注はエズラ自身が付けたことにされているが、これを理由にエズラの時代に作られたと想定されている原本は、三部しか話題に上らない。いずれにせよ、仮に3部だったとすると、そのうち2部がいつも同じ箇所で一致していたというのは大いに考えられる。原本が3部しかないのに、同じ一つの箇所の読み方が3つともばらばらだったら、その方がむしろ不思議だろう。(吉田訳、上巻431–432ページ)
ここでスピノザは「タルムードの中の小品『ソーフェリーム編』第6章では、そうした欄外注はエズラ自身が付けたことにされているが、これを理由にエズラの時代に作られたと想定されている原本は、三部しか話題に上らない」と述べている。しかしGraftonは、『ソーフェリーム編』には、神殿の庭でモーセ五書の写本が3つ見つかったとは書かれているものの、欄外注をエズラが付けたとは書かれていないと指摘する。この情報はどこから来ているのか。Graftonの答えは、この情報は先のイブン・アドニヤによる序文から来ているというものである。イブン・アドニヤはそこでこのタルムードの箇所を引いた上で、エズラが欄外注に異読を残したのは、それがすべてシナイ山でモーセに与えられた律法に由来すると考えていたからだとしている*1。以上からGraftonは、ここでの聖書の歴史に関するスピノザの記述は、体系的な調査に基づいているというよりも、彼の書棚にあったボンベルク聖書のみに依拠していることが分かると結論する。