デカルト受容の二つの背景:大学と政治 Verbeek, Descartes and the Dutch

  • Theo Verbeek, Descartes and the Dutch: Early Reactions to Cartesian Philosophy, 1637–1650 (Carbondale: Southern Illinois University Press, 1992), 6–12.

 基本書のプロローグの後半を読む。ここで著者は、デカルト哲学を巡る論争の背景として、当時のオランダでの大学教育と、政治状況について論じている。

 1575年に設立されたライデン大学では当初アリストテレスの哲学は教えられていなかった。しかし宗教に関する理論的なアプローチの一切を拒絶する熱狂主義者への対抗や、教義を巡る論争の激化に対処するために、より厳密な理論体系の導入が図られた。それはアリストテレスの著作の再導入によって行われることになる。

 ギスベルトゥス・ヴォエティウスはアリストテレスの哲学を支持した。彼によれば神は理性と感覚を通じて神を知るように人間に命じており、これをまさにアリストテレスの哲学は行っている。このため、信仰とアリストテレスの哲学の対立も起こりえないとされた。

 アリストテレスの哲学を警戒する者もいた。フラネカーのヨハネス・マコヴィウスは、オランダの大学にスコラ学を導入しようとしているとして、同じくフラネカーのウィリアム・エイムズに批判された。同じく正統派のサミュエル・マレシウスは、ヴォエティウスの哲学をカトリックに類似した逸脱だとして批判した。

 アリストテレス主義のあり方は多様だった。フランコ・ブルヘスダイクは、アリストテレス哲学の経験主義的な側面を強調し、矛盾律のような最も一般的な原則も経験によって確証されなければならないとした。Anton Deusingは、世界の構成原理を『創世記』に依拠して質料、スピリトゥス、光であるとし、この理論をアリストテレス的なものと見なした。

 アリストテレスの哲学はデカルト主義者に受け入れられもした。アドリアン・ヘーレボールトは、デカルト主義にも好意的な折衷主義者であり、スコラ学にも大きく依拠していた。ヨハンネス・デ・レイは、アリストテレスデカルトの哲学のあいだに共通性を見出した。ヨハンネス・クラウベルクは、デカルトの哲学をスコラ哲学のやり方で提示した。

 アリストテレスの哲学は自然誌を推奨しているとも理解された。デ・レイはアリストテレスは自然誌に貢献したと評価した(と同時に、この点を徹底しなかったと批判もした)。スホーキウスは、アリストテレスの哲学を支持しながら、デカルトの哲学を感覚を軽視するとして批判した。彼は農民や技術者から情報を収集している。ダニエル・ヴォエティウスは、ガッサンディアリストテレスにともに依拠し、デカルトにも賛辞を送ってすらいる。ゲラルド・デ・フリースは、アリストテレスを擁護してデカルトを批判しながらも、アリストテレスへの隷属は否定し、折衷主義的な立場をとった。

 オランダの大学には、アリストテレスとは異なる選択肢も存在していた。それはラムスであったりスカリゲルであったりベーコンであったりした。

 デカルト主義には政治的な側面もあった。この点はオラニエ派とヤン・デ・ウィットの対立が生じた17世紀後半に顕著である。デカルト主義者のフランス・ビュルマンがユトレヒトの神学教授に任命された背景には、デ・ウィット派のリベラルな勢力がユトレヒトの政治を担っていたことがあった。1692年にヤコブ・コールマンは、デカルトの哲学がライデンとユトレヒトで成功を収めたのは、両市の政治権力の後押しがあったからだとしている。

 政治権力の教会への従属を求める正統派と対峙していた支配階層にとって、デカルト主義が魅力的であった可能性は十分にある。実際、この対立はデカルト主義を巡る論争のなかでしばしば言及された。たとえば、ユトレヒト紛争にあたってデカルトは、ヴォエティウスが国家の平穏を乱しているとし、教会の構成員は民衆を教化することに専念すべきだとした。対してスホーキウスは、デカルトが貴族層と交際している点を攻撃している。

 正統派からの圧力があるにもかかわらずデカルト主義者が教授に任命されていたことは確かである。ライデン大学は、デカルトの名前に言及することを禁じた1647年の命令を確認した次の日に、デ・レイを教授に任命した。ユトレヒト大学はデカルト哲学を最初に禁止した大学でありながら、それ以後もレギウスがデカルト哲学を教えることを放置した。ヨハンネス・デ・ブリュインは、1652年にユトレヒトで教授となり、デカルト哲学を講じた。

 しかしだからといって、上位市民層のイデオロギーデカルトの哲学のあいだになにか密接な関係があったとはいえない。たしかにデカルト主義者たちによる神学と哲学を切り離すべきだという主張は、上位市民層の政策と合致していた。しかし、たとえばデ・ウィットはデカルトの数学的な著作には関心をいだいていたものの、ライデン大学で起きていたデカルト哲学をめぐる論争で、どちらかに肩入れしていた様子はない。彼はまた1656年のデカルト主義を断罪して決定を支持していた。

 以上のような宗教的、大学教育的、政治的な背景のなかで、デカルト哲学はオランダで受容されていくことになる。その際には、デカルトの哲学は、オランダの大学の状況に適合する形で改変された。同じようにデカルトの哲学への敵対者たちも、デカルト哲学の挑戦を受けて、伝統的な哲学と正統派の基準に合致するような応答をするように努めていた。