ユトレヒトのデカルト主義者たち Bordoli, Ragione e Scrittura

  • Roberto Bordoli, Ragione e Scrittura tra Descartes e Spinoza (Milan: FrancoAngeli, 1997), pp. 290–296.

 メイエルの『聖書の解釈者としての哲学』の研究書から、デカルト主義者ルードヴィッヒ・ヴォルツォーゲンを取り上げた節を読みはじめる。著者はヴォルツォーゲンによる『聖書の解釈者としての哲学』への反論を分析する前に、まず彼が活動していたユトレヒト大学でのデカルト主義者たちの活動について述べる。

 最初に資料として用いられるのは、サミュエル・マレシウスの『短論考』(Tractatus Brevis, 1672年)である。マレシウスによれば、クリストフ・ウィティキウスをはじめとするデカルト主義者は、『聖書の解釈者としての哲学』の出版により、息を吹きかえした。『聖書の解釈者としての哲学』の著者が目指しているのは、デカルトの哲学に沿って正統的な神学を歪めることで、ウォルスティウス主義者、アルミウス主義者、ソッツィーニ主義者を再生させることであったと、マレシウスはいう。

 マレシウスによれば、オランダの大学はみなデカルト主義という病に冒されている。ユトレヒト大学でも1667年以降、大変な論争が巻き起こっている。事の発端は、フランス・ビュルマンが1662年にユトレヒト大学に着任したことであった。彼は共和主義の政治家たちの後ろ盾を得ながら、精力的にデカルト主義とコクツェーウス主義を擁護した。結果としてユトレヒトは、「デカルト主義のアクロポリス、カピトリウム」になったという。

 ユトレヒトデカルト主義のメンバーは、 ランベルト・ファン・ヴェルトハウゼン、ビュルマン、ウィティキウス、レグネルス・ファン・マンスフェルトであった。またどういうわけかマレシウスは Jounal des Scavans がデカルト主義の伝播に一役買っていると述べている。ユトレヒトデカルト主義サークルは、スピノザの『神学政治論』が出版された1670年に解散したとマレシウスはいう。

 デカルト主義者たちを許すべきではないとマレシウスいう。意見の不一致はどのみちなくせないのだから、それは受け入れられるべきだという、『神学政治論』第20巻で表明されるような考えを彼は受け入れない。それは自由と放縦を取り違えているとマレシウスはいう。例えばルター派と改革派のような二つの集団のあいだで、互いに相手を許すということはありえるかもしれない。しかし、改革派という一つの集団の中で争いを残してしまってはならない。このことは、かつてアルミニウス主義をめぐって起きた論争から明らかだという。

 著者が二番目に用いる資料は、1674年に出版されたオランダ語のパンフレットである。それは、あるオランダ人とユトレヒトの神学生が対話するという体裁を取っている。この神学生によると、ユトレヒトはビュルマンらデカルト主義者たちが持ち込んだ新奇な教えに満たされて、デカルト主義に共鳴する市の政治家と教会とのあいだで衝突が起きている。ただし、このパンフレットが出た74年の時点では、デカルト主義者のサークルはユトレヒトから消滅しているという。

 ユトレヒトデカルト主義者たちは、市外ともつながっていた。ライデンにはアブラハム・ヘイダーヌスがおり、デーフェンターにはヤコブ・ペリゾニウスがおり、フラネカーにはバルタザール・ベッカーがおり、ナイメーヘンには(そして1671年以降にはライデンに)ウィティキウスがいる。デカルト主義者らは互いに結束し、もし誰かが攻撃されれば、その人物の正統性を擁護するために介入することにしていた。これはベッカーの本が1671年に出された際に実際に起きたことである。

 最後にパンフレットは、デカルト主義者と共和主義陣営のつながりに言及する。共和主義陣営は、デカルト主義者たちに、高い俸給を保証していたという。良いデカルト主義者とは、悪いオラニエ派のことであった。