- Richard H. Popkin, "Spinoza and Bible Scholarship," in Cambridge Companion to Spinoza, ed. Don Garrett (Cambridge: Cambridge University Press, 1995), 383–407.
Popkinは続いて、クェーカーのサミュエル・フィッシャーを取り上げる。フィッシャーは、聖書が神の言葉であるということは、その伝承過程からは裏付けられないと主張した。ヨセフスやタルムードによると、ある時点でラビたちが何が正典であるかを決定したという。このような人間の決定に信を置くことはできない。また聖書が書かれたときにはヘブライ語には母音記号がなかった。現在の母音記号はあとから付されたものである。したがって本文は変化しており、私たちはオリジナルを知らない。またどの写本も誤りうる人間、しかもとりわけ信用の置けないユダヤ人やカトリックによって作成されており、信頼できない。このような状況でフィッシャーは、聖書が神の言葉を含むと言えるとしたら、聖書とは独立に神の言葉とはなんであるかを知ることができなければならないとする。これをフィッシャーは、クェーカーとしての立場から、知ることが可能であるとした。
Popkinは、フィッシャーとスピノザのあいだのつながりの可能性について述べる。フィッシャーはアムステルダムに、1657年から58年にかけて6ヶ月滞在していた。そこで彼はシナゴーグに赴き、ユダヤ教徒たちにクェーカーの教えを説いていた。また彼はその頃、クェーカーのマーガレット・フェルの2つのパンフレットをヘブライ語に翻訳していた。Popkinによると、スピノザは破門後にクェーカーと関わっており、このパンフレットの翻訳にも携わっていたという。もしそうだとするとフィッシャーとスピノザは聖書についての見解を共有していた可能性がある。実際神の言葉についてのフィッシャーの理解とスピノザの理解には共通する点があるとPopkinは指摘する。『神学・政治論』でスピノザは、神の言葉は(聖書という)物理的な物体なのではいとしている。聖書がなくなっても神の言葉は残るだろう。それは理性によって認識可能である。この最後の点について、フィッシャは、それを人間のうちにある霊(ないしは光)によって認識可能だとしたのだった。
『神学・政治論』の前史の最後として、Popkinは合理主義者たちとソッツィーニ主義者たちに言及する。聖書を理性に従って解釈しようとした人物としてスピノザの友人であるメイエルがいる。彼は1666年に『聖書の解釈者としての哲学』を出版していた。これに類する見解は、カステリオやソッツィーニによって発展させられていた。ソッツィーニ主義者は聖書を字義通りに読むことと、その内容を理性に照らして判定することを唱えていた。そこから彼らは三位一体を否定していた。とはいえ彼らは信仰の根拠を聖書に置いてはいた。これが変化するのは、アンドレアス・ヴィショヴァティ(ソッツィーニの孫)によってである。ヴィショヴァティは理性は信仰の内容を判断する基準であるだけでなく、信仰の源泉でもあると主張した(彼の『理性的宗教』は1685年出版)。スピノザはソッツィーニ主義者たちを知っており、彼らとコレギアント派の集会で出会っていた。またスピノザはソッツィーニ主義者の書物のいくつかを持っていた(クリストフ・ファン・デン・サンドが彼の著作をスピノザに与えている)。