閉ざされた世界の開放性 『Nyx』第4号発売

nyx(ニュクス) 第4号

nyx(ニュクス) 第4号

  • 作者: 山本芳久,松村良祐,土橋茂樹,坂本邦暢,松森奈津子,飯田賢穂,三重野清顕,村井則夫,山内志朗,アラスデアマッキンタイア,松元雅和,井上彰,山岡龍一,山本圭,森川輝一,乙部延剛,野邊晴陽
  • 出版社/メーカー: 堀之内出版
  • 発売日: 2017/08/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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 『Nyx』第4号が発売されました。今号は二つの特集からなっています。第一特集が「開かれたスコラ学」、第二特集が「分析系政治哲学とその対向者たち」です。私は第一特集に「聖と俗のあいだのアリストテレス スコラ学、文芸復興、宗教改革」を寄稿しました。詳しい内容目次は版元ドットコムでみることができます。

 「開かれたスコラ学」という特集のタイトルを最初に聞いたときには、正直驚きました。ええ!?スコラ学の活力の源泉は、その閉鎖性にあるんじゃないの?おなじ教育を受けたものが、おなじ言語で、おなじフォーマットをつかって、おなじ問題に取りくんでいく。この閉鎖的なサーキットでしのぎを削りあうことから、高度な(そして同時に煩瑣とも呼ばれる)理論的な発展が生みだされたのではなかったか。

 しかしだとしても、たしかにこのサーキットは、いろいろなところにつながっていました。それは古代の哲学・神学に支えられていましたし、イスラム教やユダヤ教といった他宗教圏で生みだされた文書を、重要な思索の糧として受けいれていました。そしてなによりも、閉鎖的なサーキットの出口は、広大な領野に伸びていました。宗教改革、初期近代の国家理論、啓蒙思想ドイツ観念論ドイツ観念論は、ドイツでも観念論でもないなどと言われもするけれどそれはともかく)、そして20世紀の思想にいたるまで、スコラ学の遺産は生きつづけていました。

 この意味でのスコラ学の開放性を、この特集は探ります。その試みがどんな新しいサーキットをつくりだすか、楽しみでなりません。

古代への最良の導き手 山下太郎『ラテン語を読む』

ラテン語を読む キケロ―「スキーピオーの夢」

ラテン語を読む キケロ―「スキーピオーの夢」

  • 山下太郎『ラテン語を読む キケロー「スキーピオーの夢」』ベレ出版、2017年。

 日本語を使ってラテン語を学ぶにあたってふたつおおきな壁があった。ひとつは学習に適した辞書がないということ。もうひとつは初級から中級を橋渡しする教材がないことだった。

 本書の出現により、後者の壁におおきなヒビがはいったといえるだろう。『ラテン語を読む キケロー「スキーピオーの夢」』、期待にそむかない出来栄えだ。これがあれば、文法学習を終えた直後に独力でラテン語の散文が読める。

 いい点は無数にあるけれど、いくつかほんとうにすばらしい点を挙げよう。

 まずなによりもすべての単語を拾って解説を加えているのがすばらしい。この手の本の多くには説明が圧倒的に足りない。説明しなくても分かるでしょう、という雰囲気をみなぎらせている。いや、わかりませんから。どんな些細なことばでもしっかり解説してほしい。すべての解説項目に目を通すわけではないにしても、どの穴に落ちても拾ってもらえるという安心感に包まれたいんだ。

 解説の質も高い。このレベルで解説してほしいことがしっかりと書かれている。たとえば動詞のかたちの解説では、そのかたちがどの法でどの時制かというだけでなく、なぜその法と時制をとるのかがしっかり書かれている。たとえば主文が完了だから第二時制で、そのため同時を表現する副文中の動詞は接続法未完了過去、といった解説である。たいして歴史的背景の説明は最小限に抑えられている。これも正しい選択だと思う。

 本の構造にも工夫が凝らされている。当然最初にラテン語本文がきて、その後に解説が置かれているのだけれど、その解説部分に本文が再掲されているのだ。解説部は2行から5行程度の本文ごとに区切られ、その本文が掲示されたあとに解説がはじまる。こうしていちいち冒頭の本文と解説部を往復せずとも解説部だけで読解が進む。この恩恵はおおきいと読んでいて感じる。さらに解説部には、随所にラテン語を埋め込んだ逐語訳が置かれ、それにくわえて本の末尾に全体の全訳が置かれている。この配慮もすばらしい。この手のリーダーにはしばしば訳がついていないのだけれど、それは間違っている。

 さらに本文で長母音にマクロンが振ってあるのがすばらしい。そんなの当たり前ではないかと思うかもしれない。しかしこれは意外になされていないというのが私の経験が教えるところだ。その結果母音の長短に注意が向かなくなってしまう。しかしこれでは散文のリズムがとれないし、韻文になれば韻律がとれない。この損失は大きいだろう(会話するために発音することがほぼない言語とはいえ)。

 最後に値段設定が英断すぎる。全単語を取りあげて、本文を解説部に再掲し、訳も二種類付けるするという決断のため、全体のヴォリュームは370ページ近くになっている。それなのに3,000円足らずで購入可能なのだ。文法を終えたラテン語学習者のための本だということを考え合わせるなら、破格の値段設定といっていいだろう(いいですよね?)。

 というわけですので、みなさん、一家に一冊買いましょう。最寄りの図書館にも入れてもらいましょう。そうして古代におもむきましょう。いまやウェルギリスではなく山下先生が導き手です。―あらゆる絶望をすてよ、ここをくぐるおまえ達は。

理性の自律と挑戦 Paganini, "Early Modern Atheism and Renaissance Philosophy"

  • Gianni Paganini, "Early Modern Atheism and Renaissance Philosophy: The Play of Paratexts in Theophrastus redivivus and Pomponazzi's De immortalitate," Intellectual History Review 26 (2016): 25–31.

 16世紀のピエトロ・ポンポナッツィ『霊魂不滅論』と17世紀の『復活のテオフラストス』(著者不明)を比較する論考を読んだ。両者とも著作本体では、信仰から独立した理性による議論をすすめ、キリスト教の教義に反する結論に達している。だが両者とも付録的な部分では論調を変化させる。ポンポナッツィは信仰は啓示を通じて理性が到達できない真理を与えるという。『復活のテオフラストス』の著者は、本論はすべて神学者によって論駁されるためにあえて書かれたものだと宣言する。とはいえ付録の位置づけは両者で異なっていたと思われる。ポンポナッツィは理性と信仰を切り離して、哲学の自律性を保とうとした。他方『復活のテオフラストス』の著者は、あえていうなら本当に本体部分が反論にさらされるのを望んでいた。本体部分の議論(これを著者はあきらかに真理と考えている)を、神学者への挑戦として提示していたのだ。

万象をうつす地球の深部へ 山田俊弘『ジオコスモスの変容』を読む

タレスが星を観察しながら上の方を眺めていて、井戸に落ち込んだときに気の利いたしとやかなトラキア出の下女が、あの方は天空のことを知るのに熱中してご自分の後ろのことや足下のことには気が回らないでいる、という具合にからかった…

 タレスは天に熱中しすぎて井戸に落ちたと伝えられている*1。そうして哲学がはじまった。はるか古代ギリシアのことだ。だが2000年以上をへだてた今でも事態はかわっていないのかもしれない。とりわけ科学革命と呼ばれる時代を調べる歴史家たちにとっては。

 科学革命はコペルニクスにはじまり、ニュートンに完成するといわれる。あいだにはガリレオケプラーデカルトがいる。この過程はなによりも天をめぐる物語として語られてきた。天動説が地動説に交代し、新たな世界理解を裏打ちする力学が誕生する。物語の主役たちは疑いもなく「天空のことを知るのに熱中して」いた。自分の「足下のことには気が回らないで」いたかのようだ。

 だが本当にそうだったのだろうか。彼らは自分たちがどこに立っていたかに気がついていなかったのだろうか。いや、そうではない。それどころか彼らは大地のことを知るのにも熱中していた。井戸に落ちてはいなかった。むしろ落ちたのは歴史家たちのほうではなかったか。コペルクスからニュートンにいたる歴史は別様に語られることを求めている。

 こうして『ジオコスモスの変容』は「地球をめぐる思索をたどる航海」(245ページ)を開始する。16世紀よりはじまり、17世紀の終わりにまでいたる長大な旅だ。錯綜した航跡に一本の筋を通すのが、デンマーク人のニコラウス・ステノだ。著者が長年にわたって研究した人物である。幅広い読書を行い、記録を残した。地理・宗派・宗教の境界をまたぎ、さまざまな知識人たちと交流した。そして各所で発掘調査にたずさわった。彼を水先案内人にすることで、ジオコスモスの探究の歴史が浮かびあがる。

 しかしなぜ「ジオコスモス」なのだろう。ここではこの問いを入り口に、この豊かな著作の一端をかいま見てみたい。

 カギは意外なところにある。化石だ。今日では、化石が過去の生命体に由来するのは当たり前の事実となっている。だがこの認識にたどりつくのは容易ではなかった。考えてもみてほしい。化石はしばしば山でみつかる。貝やサメのものだ。ではそれらがかつては山頂に住んでいたとでもいうのだろうか。—ありえない。それらは通常の鉱物とおなじように、大地のなかで形成されたと考えねばならない。メルカーティやアルドロバンディの結論だ。

 そう考えなかった者たちがいた。出発点にあったのが、まさにジオコスモスの観念だった。古代より二種類のコスモスがあった。マクロコスモスという宇宙と、ミクロコスモスという人体だ。そこに加わるのがジオコスモスとしての地球だ。このような併置は、きわめて重要な意味あいをもっていた。生物体としてのミクロコスモスと類比的にとらえられることで、ジオコスモスたる地球もあたかも生命体であるかのように理解されはじめる。この考えはすでに16世紀中頃のアグリコラにみられる。

 ジオコスモスの観念を全面的に展開したのが、他ならぬステノだった。彼の学生時代のノートから成熟期にいたる記述をたどる第6章は著者の面目躍如といえよう。ステノは最初期から一貫して、生命体内部での固形物の形成と、地球内部での鉱物の形成を類比的に理解しようとしていた。両者とも「個体[生命体、地球]のなかの個体[固形物、地層や鉱物]」という点でおなじというのだ。

 考察を深めたステノはひとつの重要な洞察にいたる。個体のなかの個体の形成は一定の条件にしたがう。そのため地層の堆積の仕方から逆算して、それがどのような過程を経て生みだされたかが理解できるというのだ。人体が歴史を刻むように、地球も歴史をもつ。ここからかつて大洪水があったという知見が引きだされる。その際に水が生体を運んだために、現在山頂に化石がみつかるのだという。こうしてジオコスモスの観念から出発した考察は、化石の理解にたどりつく。

 大洪水という言葉があらわれた。ここから聖書を思い起こさないでいるのは困難だろう。実際この連想は必然でもあった。残された痕跡から地球の歴史を再構成できるのなら、『創世記』の記述との整合性の問題を避けて通ることはできない。さらに興味深いことに、ステノの生きた時代は聖書の解釈にも変革が起きていた時代だった。神の言葉としてではなく、あくまで過去から伝わる痕跡(史料)として聖書を読む者たちがあらわれはじめていた。この構想を盛った『神学・政治論』が衝撃を与えていた。著者のスピノザはステノと親交があった。ここにおいて地球の歴史と聖書の解釈が交差する。その模様を描きだす第7章は本書の白眉だろう。さらに最終章では、おなじくステノと親交があり、同時にスピノザを激しく批判した(そして彼にとりつかれていた)ライプニッツが登場する。核心をなすこのふたつの章で著者がなにを語っているか。それを知るためには、直接本書を手にとってもらわねばなるまい。

 以上の断片的なスケッチからもあきらかなように、「地球をめぐる思索」は単なる地質学の前史ではない。それは生体の理解を前提にしていた。歴史のおよぶ領域を拡大した。聖なる文書の読み方に反省をせまった。じつに『ジオコスモスの変容』は「大いなる知の空間を表象する」(iii)。その豊かさ、奥深さ、そして多様性に見あった読者を獲得せねばならない。散りばめられたうつくしい図版が読書の楽しみを引きたてるだろう。とって読んでほしい。できれば足下に気を回しながら、すこしうつむき加減に。

*1:ただしこの逸話はやはり創作のようだ

18世紀、ドイツ、科学の拡張 Turner, "Prussian Universities," #4

  • Steven Turner, "The Prussian Universities and the Research Imperative, 1806 to 1848" (Ph.D., diss., Princeton University, 1973), 120–127.

 18世紀のあいだに大学での科学教育は拡大した。医学教育は当時の人口増加と、進行中であった知見の革新にともなって勢力を拡張した。フライブルク大学では1700年の段階で医学部に所属する学生は全体の2%だったが、1800年には38%にまで拡大した。新科学の教育も17世紀後半には大学に導入された。たとえばイェーナではボイルの実験が1677年に教えられるようになった。科学教育の基盤は18世紀前半に確固たるものになった。

 科学教育を受けた者向けの職があるわけではなかった。科学を教える教員は医学部の教員を兼ねていることが多かったし、より下級のラテン語学校で教えられる科学はきわめて初歩的であり、専門教育を要求するようなものではなかった。科学教育はもっぱら上級学部に進む者たちのためになされていた。神学部に進む学生は自然誌を学び、医学部に進むものはくわえて化学、生理学を学ぶことが期待された。法学部に進む者も技術官僚となるために、技術教育を受けることがあった。このため大学での科学教育は総論的で基本的なものにとどまっていた。強く実用主義的な傾きをもち、医学部との結びつきが強かった。医学部から独立して、哲学部で専門的な科学教育がなされはじめるのは18世紀の末をまたねばならない。数学教育も建築や測量といった活動との関係で教えられていた。このような技術に重きをおいた教育というのは1720年以前の大学にはほとんどなかったものである。
 科学技術教育の発展と、医学部の拡大は、当時の大学が批判者たちの攻撃とは裏腹に、まさに批判者たちが求めるような改革を行っていたことをしめしている。

 

 

18世紀、ドイツ、大学の改革 Turner, "Prussian Universities," #3

  • Steven Turner, "The Prussian Universities and the Research Imperative, 1806 to 1848" (Ph.D., diss., Princeton University, 1973), 87–119.

 18世紀はドイツの大学の衰退期だと言われてきた。しかしそれと同時に改革が行われた時代とも言われている。この両側面をバランスよく論じなければならない。

 1694年にハレ大学が創設された。ライプツィヒから学生をプロイセン領内に呼び戻すためであった。だがハレは教育内容も独自だった。貴族学校の影響を受け、世俗的、実践的な学問が重視された。自然法、ヴォルフの哲学、新科学などである。

 ハレには重要な三人の教授がいた。クリスティアン・トマジウス、アウグスト・ヘルマン・フランケ、そしてクリスティアン・ヴォルフだ。トマジウスはドイツでの講義に先鞭をつけた。フランケは敬虔主義を大学に導入した。彼の弟子の J. Rombach はイェーナとギーセンに最初の教育学の講義を導入した。ここからドイツに教育学のポストが広まっていく。ヴォルフは1720年までにすべてを演繹的に導きだす体系を完成させていた。1750年にはヴォルフ主義はスコラ学を大学から駆逐してしまった。

 ハレの改革はすばやく波及していった。各地の大学に敬虔主義、俗語の使用、そして自然法、合理論的な哲学、国政術に関する講義が広まっていった。こうして大学は啓蒙主義の思潮に見合った内容の教育を提供するようになった。

 しかしハレの改革は大学への批判を鎮めることはできなかった。カリキュラムの改革だけでは学生の粗暴な行動を抑制できなかった。またカリキュラムにしても、歴史やフランス・ドイツ文学が教えられず、古典語の教育は旧態依然としたものという欠陥が残っていた。敬虔主義とヴォルフ主義も固着化した体系になってしまった。1750年以降、ハレ大学の名声は低下することになる。

 ゲッティンゲン大学は1737年に創設された。この大学は伝統的な大学の最も成功した姿を体現した。域外から多数の生徒を集め、とりわけ貴族が集う大学として名声を高めた。成功はなによりも有能な教員の採用にあった。人事は徹底的にハノーファー王国によって管理されていた。

 ゲッティンゲンで発展した学問のうちとりわけ重要だったのが古典文献学だった。ヨハン・アウグスト・エルネスティとヨハン・マティアス・ゲスナーがとなえた新人文主義は、文法とスタイルに重点をおく従来の古典語学習を、文学的・美学的なものに変革する必要性を唱えた。それによって古代の精神を身につけるべきだというのだ。ゲスナーの後継として、ゲッティンゲンではクリスティアン・ゴットロープ・ハイネが古典学を教授した。すぐれた教育者として多くの学者を育て、ドイツの古典古代学隆盛の基礎を築いた(Altertumswiffenschaft)。ハイネは文献学に美学的で、倫理的な側面を含めたため、これまで文献学で軽視されていたギリシア研究(これは文学運動の方でむしろ重要視されていた)をとりこむことができた。

 ゲッティンゲンは貴族色が強かったこともあり、学生の粗暴な行動を比較的抑制できた。また人事が厳格に国家の管理に置かれたので縁故主義も蔓延しなかった。

 とはいえゲッティンゲンの成功はその規模によって支えられており、多くのドイツの大学にとってそのまま模倣できるものではなかった。また伝統的な大学では、ゲッティンゲンのように自由に制度をデザインしたり、国家による直接の管理を実現するのは難しかった。

 

18世紀、ドイツ、大学の衰退 Turner, "Prussian Universities," #2

  • Steven Turner, "The Prussian Universities and the Research Imperative, 1806 to 1848" (Ph.D., diss., Princeton University, 1973), 20–86.

 中世以来、ドイツの大学はパリ大学をモデルにして設立されていた。しかしパリと大きく異なり、世俗的な性格を強くもっていた。多くの大学が世俗権力の主導により設立されていた。

 宗教改革により16世紀に大きな変化が起こる。まずメランヒトンを中心とする教育改革運動が波及した。これによりカトリック系の大学よりプロテスタント系の大学が知的に優位な立場に立つという状況が生まれる。また領邦君主が自前の大学を大量に設立しはじめた。支配地域で必要となる聖職者をはじめとする人材を、領域内で育成するためだ。こうして大学は発展していた。

 だが18世紀には衰退局面にはいったのがあきらかであった。入学者数は1720年で4400人だったが、1790年には3400人であり、1800年には2900人になった。ただですくなくなって行く大学を数多くの大学がとりあっていた。プロテスタント系・カトリック系の大学が二重に存在しているのも状況の悪化に拍車をかけた。

 哲学部の衰退が深刻だった。上級学部で学ぶための準備機関という役割は、より以前の教育機関に奪われ、多くの学生が哲学部を経由せずに上級学部に入学する用になった。1750年以降ハレとイェーナで哲学部に入学する学生はいなかった。ゲッティンゲンでも665人の入学者のうち、60人だけが哲学部だった。給料も下がった。哲学部の教員が年100から175ターレルを受給したのにたいして、神学部、法学部、医学部はそれぞれ、338から557、200から500、100から200ターレルを受給していた。しかも上級学部の教員と違って哲学部の教員は外部で稼ぐ手段もかぎられていた。哲学部の衰退は、大学が数学、科学、歴史学の分野での発展を吸収できないことを意味した。この点は批判された。

 結局のところカネがなかった。入学者も減少していたにもかかわらず、新たな設備投資は行わないといけないのに、政府から投下されるカネの額は増えなかった。

 大学への批判が行われた。批判者には啓蒙主義に共鳴する者たち、大学ではなく貴族学校に子弟を通わせはじめた貴族たちがいた。それにともない大学に代わる新しい学術機関が台頭してきた。アカデミーが代表例である。1760年以降は批判が激化し、大学の廃止を唱えるものすら現れた。ペスタロッツィや敬虔主義の新しい教育理念が広い支持をあつめた。

 大学のイメージをなによりも傷つけていたのは学生が行う暴力行為であった。またラテン語の暗記への重点をより現代的な対象に移すべきだと強く主張された。「大学教育は教師だけがしゃべる一方通行(Alleinsprechen)で、口頭でやり取りするソクラテス・メソッド(ein mündlicher (socratischer) Unterricht)がないからダメ」(大意)と言われた。

 18世紀後半以降に現れた文芸運動も、美的感覚とウィットを重んじる立場から、大学の硬直的な知のあり方を批判した。とりわけ Gelehrsamkeit という言葉で言い表された、知識の量、ラテン語での優雅な表現を重んじる立場が批判の対象となった。それはレッシングの Der junge Gelehrte (1748) によく現れている。同族登用はとりわけ厳しい批判にさらされた。教授職が一族によって世襲されることがあったのだ。大学の教員になりたければ、娘と結婚しろという皮肉が書かれた。

 国家の大学への関与はおおきくなかった。プロイセンは基本的に大学に対して無関心であった。これは前記の批判が大学への信頼を失わせていたからだとこれまで解釈されてきた。なるほどそれはそうだろう。しかしそれだけではない。むしろ無関心は従来の政策の延長なのだ。伝統的に領邦君主たちは、大学とは領域内で聖職者をはじめとする人材を養成するための機関だった。彼らが大学に期待したのは人材を他の領域に流出させないことだった(だからときとして領内の学生が行ける大学を制限しようとした)。これらの目的を達成する限りで、プロイセン政府は大学に介入した。それゆえ抜本的な改革を望まなかったのである。