価値から生の意味へ 渡辺「歴史科学(歴史学)の方法論」

 19世紀後半に盛んにとりあげられた価値の哲学と、ハイデガーの哲学との研究を探る論考である。新カント派のヴィンデルバントとリッカートが学問の種類を2つに分けたのは、よく知られている。一つは科学の領域である。事実にもとづいて普遍的に成りたつ法則を発見する。これにたいして歴史の領域はあくまで個別的な出来事を扱うので、法則化になじまず、一見すると学問といえないように見える。これにたいしてヴィンデルバントとリッカートはこう答えた。なるほど歴史学は一回きりの出来事を扱う。しかしその出来事を意味を解釈する点を忘れてはならない。この解釈は価値にもとづいて行われる。この価値は普遍性をもつ。そのため歴史学も普遍を扱う学問なのだと。
 歴史を学問とみなすための考察は、ラスクに引き継がれた。彼はこれを論理的に行おうとする。この論理的なやり方の要点は、素材と形式という質料形相論の枠組みで、歴史学を理解しようとする点にあるようだ。素材は個々の経験である。それに意味を与えるような価値が、形式として理解される。
 ここから私の理解が及ばなくなるのだが、どうもこの意味の領域の話がジンメルから来ているようだ。個々の出来事が普遍的な価値に関係しているということは、出来事がもつ意味として現れてくる。こういう(モノとしてあるという意味での)実在でもなく、(空想も含むという意味での)主観でもないような、客観性をもつ理念の領域というものを、ジンメルは「第三領域」と読んでいた。このジンメルの理解がリッカートとラスクには引き継がれていたという。
 最後に、以上の議論とハイデガーの関係が触れられる。ハイデガーは、ヴィンデルバントやリッカートと同じく、自然科学と歴史学をともに学問とみなしながら、区別していた。またこの区別に関する考察が、論理学的な性質をもつと考える点で、ラスクの考え方を引き継いでいる。最後に存在の意味という視点は、ラスクの意味についての議論を介して、ジンメルの第三領域につながっている。これらの問題意識を引き継ぎながら、そこに時間という要素をつけ加えたのが、ハイデガーの独自性であり学問的な野心であった。

意味ある人生を求めて 村山「人生の意味の分析哲学」

現代思想 2017年12月臨時増刊号 総特集◎分析哲学

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 分析哲学の領域で、人生の意味の問題がどう扱われているかを明晰にまとめてくれている。まったく知らない分野(そんな分野ばかりなんだけど)への案内として、大いに勉強になった。流れとしては、まず「どんな道徳にしたがって生きるべきか」を問うような倫理学は、それだけだとただ道徳的に生きる人間だけに価値を認めることになってしまうけれど、私たちが価値や意味ある人生というときには、道徳以外にもいろいろな基準があるだろうという問題提起からはじまる(スーザン・ウルフの論文)。そこから、ではどういうときに私たちは人生の価値を認めるのだろうか、とか、その価値は人生の全体にたいして認定されるのか、それとも部分にたいしてかという問いがあらわれてくる。また、私たちが人生に意味を認定するのはいいとして、その時認定されているものは私たちの主観的な思い込みなのか、それとも私たちから独立した存在として認められるのか、などといった問いも立てることができる。最後に、有意義だと思って打ち込んでいる活動に、ふとしたときにバカバカしさを感じてしまうことがある(「なんでこんなことに必死になっているのだろう?」のように)が、どうしてこんなことを感じてしまうのかも分析されなければならないという。

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改革を刷り上げること 加藤「ルターの宗教改革」

 宗教改革といえば何が思い浮かぶだろうか。いろいろな可能性があるだろうが、その一つにマルティン・ルターローマ・カトリックの教えに反旗を翻したという事実は間違いなく含まれるはずだ。長きにわたって西洋で維持され、そのため硬直もしていた教義に、ルターが新たな教えをもって立ち上がった。その核心はなんだったのか?たとえば信仰義認とはなにか?こう話を進めると、いきおい議論は精緻に編み上げられた神学教義同士の対抗に集中する。

 しかし対抗は別様にも語れるはずだ。ルターは新たな教えを抱いていただけではない。新たなメディアと手をたずさえていた。印刷機である。ルターと印刷機の関係に着目することで、改革の別の側面が見えてくる。そう、宗教改革とは膨大な紙の束を吐き出しほかならなかった。

 加藤はルターがいかに新たなメディアを使いこなしていたかを指摘する。短いパンフレットに、メッセージを簡潔にしるし、俗語で発信する。仕事の質の高い出版業者に、ヴィッテンベルクに支店を出させる。著名な画家に木版画を作成させる。18年から19年に出した「45の著作は、291もの版を重ねるのだ」(20ページ)。じつに「ヴィッテンベルクでビールを飲んでいる間に、みことばが人々のあいだで働いた」(27ページ)と彼に言わしめるほど、メッセージは人口に膾炙した。

 だが吐き出されたとほうもない紙の束は、彼がビールを飲む間に、制御不可能な仕方で働きはじめていた。それは人々を扇動した。暴力をもって改革をなしとげようという機運が高まった。これをおさえこまねばならない。ルターはどこに手をつけるべきか熟知していた。印刷機だ。手はじめに論敵の出版物の禁止を実現する。やつに紙の束を吐き出せるわけにはいかない。そして新たなメッセージを発信する。暴力的な蜂起に加担する者は、「誰でも刺し殺し、打ち殺し、絞め殺しなさい」(34ページ)。

 この残酷なメッセージは、敵対者たちを歓喜させた。ついに反逆者が残虐な本性をあらわした。ここでカトリックはなにをしたか。やはり印刷機に手をのばした。ルターのメッセージをあえて印刷し、その酷薄さを喧伝するのだ。

 古代人は明敏にも、神のひとりに「噂」を数えた。じつに宗教改革は噂を味方につけようとする抗争であった。だが神を人間が制御できるはずもない。つねに「噂は諸邦の民をいくとおりもの話でみたした」(『アエネーイス』4歌189行)。こうして、ルターについてもいくとおりもの話が生みだされた。その顛末を、加藤の論考は描きだしている。

閉ざされた世界の開放性 『Nyx』第4号発売

nyx(ニュクス) 第4号

nyx(ニュクス) 第4号

  • 作者: 山本芳久,松村良祐,土橋茂樹,坂本邦暢,松森奈津子,飯田賢穂,三重野清顕,村井則夫,山内志朗,アラスデアマッキンタイア,松元雅和,井上彰,山岡龍一,山本圭,森川輝一,乙部延剛,野邊晴陽
  • 出版社/メーカー: 堀之内出版
  • 発売日: 2017/08/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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 『Nyx』第4号が発売されました。今号は二つの特集からなっています。第一特集が「開かれたスコラ学」、第二特集が「分析系政治哲学とその対向者たち」です。私は第一特集に「聖と俗のあいだのアリストテレス スコラ学、文芸復興、宗教改革」を寄稿しました。詳しい内容目次は版元ドットコムでみることができます。

 「開かれたスコラ学」という特集のタイトルを最初に聞いたときには、正直驚きました。ええ!?スコラ学の活力の源泉は、その閉鎖性にあるんじゃないの?おなじ教育を受けたものが、おなじ言語で、おなじフォーマットをつかって、おなじ問題に取りくんでいく。この閉鎖的なサーキットでしのぎを削りあうことから、高度な(そして同時に煩瑣とも呼ばれる)理論的な発展が生みだされたのではなかったか。

 しかしだとしても、たしかにこのサーキットは、いろいろなところにつながっていました。それは古代の哲学・神学に支えられていましたし、イスラム教やユダヤ教といった他宗教圏で生みだされた文書を、重要な思索の糧として受けいれていました。そしてなによりも、閉鎖的なサーキットの出口は、広大な領野に伸びていました。宗教改革、初期近代の国家理論、啓蒙思想ドイツ観念論ドイツ観念論は、ドイツでも観念論でもないなどと言われもするけれどそれはともかく)、そして20世紀の思想にいたるまで、スコラ学の遺産は生きつづけていました。

 この意味でのスコラ学の開放性を、この特集は探ります。その試みがどんな新しいサーキットをつくりだすか、楽しみでなりません。

古代への最良の導き手 山下太郎『ラテン語を読む』

ラテン語を読む キケロ―「スキーピオーの夢」

ラテン語を読む キケロ―「スキーピオーの夢」

  • 山下太郎『ラテン語を読む キケロー「スキーピオーの夢」』ベレ出版、2017年。

 日本語を使ってラテン語を学ぶにあたってふたつおおきな壁があった。ひとつは学習に適した辞書がないということ。もうひとつは初級から中級を橋渡しする教材がないことだった。

 本書の出現により、後者の壁におおきなヒビがはいったといえるだろう。『ラテン語を読む キケロー「スキーピオーの夢」』、期待にそむかない出来栄えだ。これがあれば、文法学習を終えた直後に独力でラテン語の散文が読める。

 いい点は無数にあるけれど、いくつかほんとうにすばらしい点を挙げよう。

 まずなによりもすべての単語を拾って解説を加えているのがすばらしい。この手の本の多くには説明が圧倒的に足りない。説明しなくても分かるでしょう、という雰囲気をみなぎらせている。いや、わかりませんから。どんな些細なことばでもしっかり解説してほしい。すべての解説項目に目を通すわけではないにしても、どの穴に落ちても拾ってもらえるという安心感に包まれたいんだ。

 解説の質も高い。このレベルで解説してほしいことがしっかりと書かれている。たとえば動詞のかたちの解説では、そのかたちがどの法でどの時制かというだけでなく、なぜその法と時制をとるのかがしっかり書かれている。たとえば主文が完了だから第二時制で、そのため同時を表現する副文中の動詞は接続法未完了過去、といった解説である。たいして歴史的背景の説明は最小限に抑えられている。これも正しい選択だと思う。

 本の構造にも工夫が凝らされている。当然最初にラテン語本文がきて、その後に解説が置かれているのだけれど、その解説部分に本文が再掲されているのだ。解説部は2行から5行程度の本文ごとに区切られ、その本文が掲示されたあとに解説がはじまる。こうしていちいち冒頭の本文と解説部を往復せずとも解説部だけで読解が進む。この恩恵はおおきいと読んでいて感じる。さらに解説部には、随所にラテン語を埋め込んだ逐語訳が置かれ、それにくわえて本の末尾に全体の全訳が置かれている。この配慮もすばらしい。この手のリーダーにはしばしば訳がついていないのだけれど、それは間違っている。

 さらに本文で長母音にマクロンが振ってあるのがすばらしい。そんなの当たり前ではないかと思うかもしれない。しかしこれは意外になされていないというのが私の経験が教えるところだ。その結果母音の長短に注意が向かなくなってしまう。しかしこれでは散文のリズムがとれないし、韻文になれば韻律がとれない。この損失は大きいだろう(会話するために発音することがほぼない言語とはいえ)。

 最後に値段設定が英断すぎる。全単語を取りあげて、本文を解説部に再掲し、訳も二種類付けるするという決断のため、全体のヴォリュームは370ページ近くになっている。それなのに3,000円足らずで購入可能なのだ。文法を終えたラテン語学習者のための本だということを考え合わせるなら、破格の値段設定といっていいだろう(いいですよね?)。

 というわけですので、みなさん、一家に一冊買いましょう。最寄りの図書館にも入れてもらいましょう。そうして古代におもむきましょう。いまやウェルギリスではなく山下先生が導き手です。―あらゆる絶望をすてよ、ここをくぐるおまえ達は。

理性の自律と挑戦 Paganini, "Early Modern Atheism and Renaissance Philosophy"

  • Gianni Paganini, "Early Modern Atheism and Renaissance Philosophy: The Play of Paratexts in Theophrastus redivivus and Pomponazzi's De immortalitate," Intellectual History Review 26 (2016): 25–31.

 16世紀のピエトロ・ポンポナッツィ『霊魂不滅論』と17世紀の『復活のテオフラストス』(著者不明)を比較する論考を読んだ。両者とも著作本体では、信仰から独立した理性による議論をすすめ、キリスト教の教義に反する結論に達している。だが両者とも付録的な部分では論調を変化させる。ポンポナッツィは信仰は啓示を通じて理性が到達できない真理を与えるという。『復活のテオフラストス』の著者は、本論はすべて神学者によって論駁されるためにあえて書かれたものだと宣言する。とはいえ付録の位置づけは両者で異なっていたと思われる。ポンポナッツィは理性と信仰を切り離して、哲学の自律性を保とうとした。他方『復活のテオフラストス』の著者は、あえていうなら本当に本体部分が反論にさらされるのを望んでいた。本体部分の議論(これを著者はあきらかに真理と考えている)を、神学者への挑戦として提示していたのだ。

万象をうつす地球の深部へ 山田俊弘『ジオコスモスの変容』を読む

タレスが星を観察しながら上の方を眺めていて、井戸に落ち込んだときに気の利いたしとやかなトラキア出の下女が、あの方は天空のことを知るのに熱中してご自分の後ろのことや足下のことには気が回らないでいる、という具合にからかった…

 タレスは天に熱中しすぎて井戸に落ちたと伝えられている*1。そうして哲学がはじまった。はるか古代ギリシアのことだ。だが2000年以上をへだてた今でも事態はかわっていないのかもしれない。とりわけ科学革命と呼ばれる時代を調べる歴史家たちにとっては。

 科学革命はコペルニクスにはじまり、ニュートンに完成するといわれる。あいだにはガリレオケプラーデカルトがいる。この過程はなによりも天をめぐる物語として語られてきた。天動説が地動説に交代し、新たな世界理解を裏打ちする力学が誕生する。物語の主役たちは疑いもなく「天空のことを知るのに熱中して」いた。自分の「足下のことには気が回らないで」いたかのようだ。

 だが本当にそうだったのだろうか。彼らは自分たちがどこに立っていたかに気がついていなかったのだろうか。いや、そうではない。それどころか彼らは大地のことを知るのにも熱中していた。井戸に落ちてはいなかった。むしろ落ちたのは歴史家たちのほうではなかったか。コペルクスからニュートンにいたる歴史は別様に語られることを求めている。

 こうして『ジオコスモスの変容』は「地球をめぐる思索をたどる航海」(245ページ)を開始する。16世紀よりはじまり、17世紀の終わりにまでいたる長大な旅だ。錯綜した航跡に一本の筋を通すのが、デンマーク人のニコラウス・ステノだ。著者が長年にわたって研究した人物である。幅広い読書を行い、記録を残した。地理・宗派・宗教の境界をまたぎ、さまざまな知識人たちと交流した。そして各所で発掘調査にたずさわった。彼を水先案内人にすることで、ジオコスモスの探究の歴史が浮かびあがる。

 しかしなぜ「ジオコスモス」なのだろう。ここではこの問いを入り口に、この豊かな著作の一端をかいま見てみたい。

 カギは意外なところにある。化石だ。今日では、化石が過去の生命体に由来するのは当たり前の事実となっている。だがこの認識にたどりつくのは容易ではなかった。考えてもみてほしい。化石はしばしば山でみつかる。貝やサメのものだ。ではそれらがかつては山頂に住んでいたとでもいうのだろうか。—ありえない。それらは通常の鉱物とおなじように、大地のなかで形成されたと考えねばならない。メルカーティやアルドロバンディの結論だ。

 そう考えなかった者たちがいた。出発点にあったのが、まさにジオコスモスの観念だった。古代より二種類のコスモスがあった。マクロコスモスという宇宙と、ミクロコスモスという人体だ。そこに加わるのがジオコスモスとしての地球だ。このような併置は、きわめて重要な意味あいをもっていた。生物体としてのミクロコスモスと類比的にとらえられることで、ジオコスモスたる地球もあたかも生命体であるかのように理解されはじめる。この考えはすでに16世紀中頃のアグリコラにみられる。

 ジオコスモスの観念を全面的に展開したのが、他ならぬステノだった。彼の学生時代のノートから成熟期にいたる記述をたどる第6章は著者の面目躍如といえよう。ステノは最初期から一貫して、生命体内部での固形物の形成と、地球内部での鉱物の形成を類比的に理解しようとしていた。両者とも「個体[生命体、地球]のなかの個体[固形物、地層や鉱物]」という点でおなじというのだ。

 考察を深めたステノはひとつの重要な洞察にいたる。個体のなかの個体の形成は一定の条件にしたがう。そのため地層の堆積の仕方から逆算して、それがどのような過程を経て生みだされたかが理解できるというのだ。人体が歴史を刻むように、地球も歴史をもつ。ここからかつて大洪水があったという知見が引きだされる。その際に水が生体を運んだために、現在山頂に化石がみつかるのだという。こうしてジオコスモスの観念から出発した考察は、化石の理解にたどりつく。

 大洪水という言葉があらわれた。ここから聖書を思い起こさないでいるのは困難だろう。実際この連想は必然でもあった。残された痕跡から地球の歴史を再構成できるのなら、『創世記』の記述との整合性の問題を避けて通ることはできない。さらに興味深いことに、ステノの生きた時代は聖書の解釈にも変革が起きていた時代だった。神の言葉としてではなく、あくまで過去から伝わる痕跡(史料)として聖書を読む者たちがあらわれはじめていた。この構想を盛った『神学・政治論』が衝撃を与えていた。著者のスピノザはステノと親交があった。ここにおいて地球の歴史と聖書の解釈が交差する。その模様を描きだす第7章は本書の白眉だろう。さらに最終章では、おなじくステノと親交があり、同時にスピノザを激しく批判した(そして彼にとりつかれていた)ライプニッツが登場する。核心をなすこのふたつの章で著者がなにを語っているか。それを知るためには、直接本書を手にとってもらわねばなるまい。

 以上の断片的なスケッチからもあきらかなように、「地球をめぐる思索」は単なる地質学の前史ではない。それは生体の理解を前提にしていた。歴史のおよぶ領域を拡大した。聖なる文書の読み方に反省をせまった。じつに『ジオコスモスの変容』は「大いなる知の空間を表象する」(iii)。その豊かさ、奥深さ、そして多様性に見あった読者を獲得せねばならない。散りばめられたうつくしい図版が読書の楽しみを引きたてるだろう。とって読んでほしい。できれば足下に気を回しながら、すこしうつむき加減に。

*1:ただしこの逸話はやはり創作のようだ