自然法の二つの伝統 Saccenti, "Mysterium naturae" #1

  • Riccardo Saccenti, "The Ministerium Naturae: Natural Law in the Exegesis and Theological Discourse at Paris between 1160 and 1215," Journal of the History of Ideas 79 (2018): 527–45.

 ペトルス・ロンバルドゥスと、その後継者たちが、自然法の概念をどう理解していたかを検討した論文を読む。私が理解した限りでは、前半部ではだいた以下のようなことが書いてある。

 自然法の理解には伝統的に二通りあった。この理解はグラティアヌスにあらわれている。第一は、聖書に書かれている法のことで、おおよそ黄金律に一致する。他方、神に起源をもつ法と並んで、自然法はどの人間社会ももちあわせている公正さ(equum)に関わる決まりだという考えもあった。これは、ローマ法の伝統に深く入りこんでいる。

 12世紀初頭頃にまで写本が遡るGlossa Ordinaria(ここではパウロ書簡に関係する部分)では、この2つの流れの両方が見られる。神に由来する知識としては、自然の秩序を手がかりに、神について知ることができるという自然神学の考えが見られる。他方、人間が共有する知識としては、どの人間でも善悪をわきまえているということが指摘される。ただし、だからといって人間が善を為せるわけではない。人間は堕落しているからだ。そのため、人間の内にある神の似姿を、神が恩寵によって回復させてはじめて、人間は善を為せるとされる。

 Glossaに見られる二つの考え方を統合したのが、ロンバルドゥスだった。彼にいわせれば、自然の秩序を通して神を知ることができるのも、生まれつき人間が善悪を把握できるのも、ともに神が人間に与えた理性に由来するという。ここから神学的伝統から来る自然法の理解と、法的伝統からくる自然法の理解が統合されたのだと、著者は指摘する。

 読んでいて驚いたのが、ロンバルドゥスが贖罪と受肉の秘儀について、自然を通して知ることができると断言していることだった。著者によると(注19)、ロンバルドゥスはアベラールほどには理性によるキリスト教教義の理解の可能性を強く認めていなかったらしい。しかし、引かれている文章はこの可能性を強く認めているように読める。

自由になるための入り口 國分功一郎『スピノザ 『エチカ』』

 

 「100分 de 名著」シリーズから、スピノザの『エチカ』を解説したものがでました。難解な学説が、芸術的といっていいほど見事に説明されています。『エチカ』への入り口として、まず読むべき書物の地位を獲得するのではないでしょうか。以下、(少し私の言葉づかいが混じってしまっていますが)、全体の内容を紹介しておきます。

 第1回「善悪」では、自然のうちには、それ自体として善いものや悪いものはないという話からはじまります。善悪はあくまである特定の時点でのモノとモノの組み合わせに関して生じるものだといいます。たとえば、ある時点でのある人にとっては、薬は善であるというように決まります。しかし、別の時点では、おなじ人にとってすら薬は悪であるでしょう。このように、善悪は常に変化する事物のその都度のあり方から決まってきます。
 第2回「本質」では、変化から出発して、スピノザがいうところの本質が理解されるという話題が展開されます。事物というのは、周りから刺激を受けながら、常に活動のあり方を変化させています。不変なのは、変化のなかでも自己の存在を維持しようとする傾向であり、これが本質になります。
 個物は互いに刺激を与えあってあり方を変化させ続けます。この意味で、個物は互いに独立した存在ではありません。刺激のやり取りの巨大なネットワークの一部です。このネットワークの全体は、外部をもちません。これをスピノザは神とします。この神がネットワークの各部位で取る様々なあり方が個物ということになります。これに関して、見事な説明を引用しましょう。

神を無限に広がる一枚のシーツのようなものにたとえれば分かりやすいかもしれません。シーツに皺が寄ると、さまざまな形や模様ができますが、それが変状としての個物です。シーツを引っぱると皺は消え、また元の広がりに戻りますが、シーツは消えません(56ページ)。

 第3回「自由」では、意志に関する通俗的な理解を批判しながら、スピノザの自由の概念が解説されています。自由というのは選択肢のなかから好きなものを意志によって自発的に選ぶということではなく、むしろ、行為のうちで自己のあり方がよりどれだけ多く表現されるかの度合いだといいます(これだけではなんのことか分からないと思いますので、詳しくは本文のこれまた見事な説明をどうぞ)。
 第4回「真理」では、デカルトの真理観と対比させて、スピノザの真理観が説明されます。デカルトは、真理の公共性を重んじました。彼は要するに、定規を当てたり、秤ではかったりするという公共の基準に照らし合わせてはじめて私たちは真理を得られると考えていました。そのような基準のないところには、真理を認めませんでした。それにたいしてスピノザの真理は、公的な基準に照らし合わされるようなものではありません(基準を置いてしまうと、基準が本当に公的なものかを判定するために、判定のためのさらなる基準が必要になり、無限後退に陥る)。そうではなく真理を獲得したら、自ずと私たちはいま真理を獲得していると分かるというのです。この実感が私たちを変えていきます。この意味で、スピノザは真理の公共性よりも、それが私たちを変化させる点に着目しているといえます。

 以上が本書の概要です。全体として説明がきわめて分かりやすいです。また、スピノザの学説がもつ含意を、身近な例をまじえながら見事に説明できています。構成としても、『エチカ』第1部の神から入るのではなく、4部の善悪から話をはじめるのも、(先例があると認めつつも)卓見だと感じます。

 一つ私と考えと違うなと思ったのは、スピノザの特殊性についてです。著者は、スピノザの考え方は、他の哲学者の考え方とは、アプリケーションのレベルではなく、OSのレベルで違うとしています。また、スピノザは彼の著作を読んだこともない人々に批判されたとしています。まず後者の点に関しては、すくなくとも当時のスピノザの批判者のうちには、彼の著作を精読していた者たちがいたということを、強調しておきたいです。私が実際に見た例では、デカルト主義者の神学者クリストフ・ウィティキウスの『反スピノザ』は、『エチカ』への深い理解をしめしています。また、ユトレヒトデカルト主義者たちが、『神学・政治論』を貪るように読んでいたことも知られています(参照)。
 むしろ私としては、なぜこんなにみなスピノザを理解できてしまうのかと驚いてしまうくらいです。あんなにワケが分からない書き方がされているのに。一つには、デカルトをよく理解していた人々にとって、スピノザの哲学はその一つの発展形として理解しやすかったのでしょう。それがあってはならない発展形であったとしてもです。
 すみやかな理解のもう一つの理由は、デカルト主義者に限らず、哲学者たちがなんとなく予感していたことを、スピノザが見事に定式化してしまったからではないかというものです。とくに個別的なものしかない物質の世界と、普遍をあらわす概念によって記述される真理の世界の関係がどうしても説明できないと苦しんでいるなか(イデアの分有とか、個別的知性と普遍的知性の想像力による接続といったことがいろいろいわれていました)、神のうちでの並行論のような道具立てが出てきたときに、「それをしたらうまくいくだろうが、しかしいくらなんでも…」という反応になったのではないでしょうか。ここを突き詰めて考えるとスピノザに接近するという見通しは、ライプニッツがほぼおなじ結論に達していることからも傍証されるように思われます。
 以上のように考えると、違うOSであるといえるほどにスピノザが特殊であるとは言い切れないのではないかと思えてくるのです。むしろ、哲学の歴史の中で予感されていたナニカをおもてに引きずりだしてしまったというのが実情に近いのではないか。だからこそすみやかに理解され、強い反発を招いたのではないでしょうか。
 このようなスピノザ哲学史のなかでの位置づけについては、この後ライプニッツの『弁神論』を読みながら、しっかりと定式化できていけばいいと考えています。しかしそのような余談はどうでもよく、とにかく本書を『エチカ』への入り口として強く勧めます。

『ピカトリクス』邦訳のわずかばかりの検証

ピカトリクス―中世星辰魔術集成

ピカトリクス―中世星辰魔術集成

  • 『ピカトリクス 中世星辰魔術集成』大橋喜之訳、八坂書房、2017年。

 ラテン語訳からつくられた日本語訳である。その第1章の最初の2文について、訳文を検討した。ラテン語は難解であり、私の理解が及ばないところも多い。しかしそれでも、いくつかの箇所については、邦訳の問題点を指摘できると考えた。

 ラテン語の本文は以下からとった。これは、邦訳が底本としているものである。

  • David Pingree, ed., Picatrix: The Latin Version of the Ghāyat al-ḥakīm (London: Warburg Institute, 1986).

 第1章の最初の2文をまず抜粋する(3ページより)。

Scias, o frater carissime, quod maius donum et nobilius quod Deus hominibus huius mundi dederit est scire quia per scire habetur noticia de rebus antiquis et que sunt cause omnium rerum huius mundi et que cause magis propinque sunt causis aliarum rerum et qualiter una res cum alia convenienciam habet, et propter hoc sciuntur omnia que sunt et qualiter sunt, et qualiter una res post aliam in ordine elevatur, et in quo loco ille qui est radix et principium omnium huius mundi rerum existit, et per eum omnia dissolvuntur, et per ipsum omnia nova et vetera sciuntur. Ipse enim est in veritate primus, et nihil in eo deficit nec aliquo alio indiget cum ipse sui ipsius et aliarum rerum sit causa, nec ab alia recipit qualitates.

 この箇所の邦訳は、次のようになっている(7ページより)。

親しき兄弟よ、神がこの世の人々に授けたまうた高貴にして最大の賜は知るということに尽きる。知ることにより古のものごとに関する知見が得られ、この世のあらゆる事物の原因が知られる。また偶因の多くは他の事物によるものであることが。いかにしてある事物は他と共通するものをもつのか。まさにここからあらゆる存在物とその性質が知られ、いかにある事物は他よりも高い段階にあるか、それらがある場所こそがこの世に存する万物の礎であり端緒原理であること、またそこにすべては解消されていくことが、また古今のすべてが知られる。それ(知ること)こそがじつに第一の真実であり、それには何の欠如もなく、それ自身以外になにか他のものを必要とすることも、他の事物を原因とするのでもなく、他の諸性質を受けとるのでもない。

 以下の部分に関しては、訳文に再考の余地があると思われる。

「それらがある場所こそがこの世に存する万物の礎であり端緒原理である」in quo loco ille qui est radix et principium omnium huius mundi rerum existit

ここは、関係代名詞節を省略すると、次のようになる。

in quo loco ille existit

これを直訳すると、「その場所にそれ(その者)は存在する」になる。間接疑問文だとすると、「どの場所にそれが存在するのか」になる。どちらの解釈をとるにしても、「それらがある場所こそがこの世に存する万物の礎であり端緒原理である」とは、ならないのではないか。

「またそこにすべては解消されていく」per eum omnia dissolvuntur

これも直訳すると、「それによってすべては解消される」になる。per の前置詞節を「そこに」と訳せるかは疑問である。また邦訳は eum は、locum であると解釈している。しかし、これはむしろ少し前にある ille を受けているのでないか。「この世に存する万物の礎であり端緒原理であるそれ」(ille qui est radix et principium omnium huius mundi rerum)である。これは、神を指すのだろう。

「それ(知ること)こそがじつに第一の真実であり」Ipse enim est in veritate primus

邦訳は ipse が、知ること(scire)を受けると解釈している。しかし、ipse という男性名詞が受けているのは、前文の ille ではないだろうか。ille は神であり、神が「第一の真実であり、それには何の欠如もなく…」というのは、自然である。

「他の諸性質を受けとるのでもない」nec ab alia recipit qualitates

「他の」が諸性質にかかると解釈されている。しかし、alia は ab alia [causa] として、causa にかかっていると考えるべきである。したがって、「他の原因から諸性質を受けとるのでもない」と訳すべきである。

13世紀の資本論 大黒『嘘と貪欲』#2

嘘と貪欲―西欧中世の商業・商人観―

嘘と貪欲―西欧中世の商業・商人観―

  • 大黒俊二『嘘と貪欲 西欧中世の商業・商人観』名古屋大学出版会、2006年、51–62ページ。

 フランシスコ会士ピエール・ド・ジャン・オリーヴィ(ca. 1248–1298)によれば、貨幣はある条件を満たすと「資本」という性格を獲得する。その条件とは、所有者が貨幣を用いて利益を生み出すぞと決意し、かつ所有者に利益を生み出す能力がある場合である。こうなると、貨幣は利益を生みだす種子のごとき性格を獲得し、資本となるという。このような性格を獲得した貨幣であれば、資本として売買することが可能である。これにより、貨幣を委託した者は、借りた側が発生させた利益の一部を、正当に要求することができるようになる。これは実質的な利子であるものの、禁止されていた徴利には当たらないという。

 資本を種子になぞらえる理解は、ボナヴェントゥラから来たのかもしれない。ボナヴェントゥラの質料形相論によれば、形相は質料のうちに不完全な形で宿っていて、それを現実態にひきだすのが作用者となる。この不完全な形で宿っている事態を、ボナヴェントゥラは形相の種子的な性格と呼んだ。この理解と、オリーヴィの資本論はパラレルである。種子的に宿る形相に作用者が働きかけて、それを現実化するように、種子的に利益を宿す貨幣に、所有者が決意と能力をもって働きかけることで、利益を現実化するのである。

 こうして、増殖する資本という概念が、質料形相論の枠組みから生みだされたのだった。

貨幣は本当に不妊なのか 大黒『嘘と貪欲』#1

嘘と貪欲―西欧中世の商業・商人観―

嘘と貪欲―西欧中世の商業・商人観―

  • 大黒俊二『嘘と貪欲 西欧中世の商業・商人観』名古屋大学出版会、2006年、38–50ページ。

 名著から簡単なメモ。徴利はいくつかの理由で禁じられていた。聖書に禁止の文言がある。時間は神のものだから売り買いの対象にしてはならない。貨幣に関しては、所有権と使用権を分離できないのだから、使用するものに自動的に所有権が移ってしまう。だから、貨幣に関して使用料として徴利を取り立てることは許されない。
 例外的に認められていたのが、損害賠償である。しかしこれにも厳しい制限が課せられていた。アクィナスによると、たとえば家屋を貸して、その家を壊された者は、壊されたものと等価のものでもって賠償を受けられる。しかし、緊急に友達に金を貸してといわれて貸した結果、目前にあった儲ける機会を失ってしまった人はどうか。これにも一定の賠償は認められるものの、厳しい制限が課せられるべきだとアクィナスはした。まず等価物での賠償は必要ない。というのも、そこで期待されている利益は可能態としての利益なのだから、家が破壊された時のように現実態にあるものが失われたとみなしてはならないからだ。また、賠償額の算定はなるべく短く見積もられなければならない。たとえば、貸していた金が返ってくるのが遅れて損害が生じた場合、あくまで遅延期間につき、賠償が求められなければならない。
 トマスによる厳しい制約は、しかし商業経済の発展により、次第に崩れていく。実際、アクィナス自身に己の理論を掘り崩していく場面が見られる。彼は投資貸借について、商人に金を委託した者は、委託した金から生じる利益の一部を要求しうるとしている。しかし、委託した場合、使用権が移転しているのだから、所有権も移転しているのではないか。それなのになぜ利益を請求できるのだろう。また委託した貨幣から利益が生みだされたからといって、その利益を貨幣が生みだしたといえるのだろうか。それは委託を受けた商人が生み出したのではないだろうか。もし利益を委託者が請求できるなら、それは貨幣が農園のごとく利益を生む性質をもつと考えなければらない。しかし、これは定説である貨幣不妊説に反する。
 こうして、消費貸借にせよ投資貸借にせよ、徴利を正当化する必要が、続く理論家たちに残された。

オッカムの正統論 将基面『ヨーロッパ政治思想の誕生』

ヨーロッパ政治思想の誕生

ヨーロッパ政治思想の誕生

  • 将基面貴巳『ヨーロッパ政治思想の誕生』名古屋大学出版会、2013年、187–208.

 中世の政治思想についての基本書から、オッカムを扱った箇所を読む。大胆なパラフレーズにより、基本書のお手本ともいってよい明晰さを獲得している。

 「政治」に関する問題をオッカムが論じはじめたのは、教皇ヨハネス22世に対抗するためであった。教皇フランシスコ会の清貧の教義を異端であると宣言したのにたいし、お前こそが異端だと反論したのである。このように論じるために、オッカムは異端の意味を転換させた。というのも、従来のように異端とは教会による異端宣告に他ならないとすると、教皇を異端視することが不可能になってしまうからである。そこでオッカムは、異端とはキリスト教の教義から逸脱した状態だと再定義する。教義は聖書などの文書の記述で決まる。文書の記述は、必要な知識を備えた者であれば、誰でも理解できる。
 ここからいくつかの結論が引き出される。まず当然、教皇も異端になりうる。しかもその異端認定は、文書を読める者であれば誰にでもできる。すると、(オッカムの理解では現実にそうであったわけだが)異端の教皇に、正しい聖書理解をもった多くの人々が対峙するということが起きうる。これは実に危険な状況である。なぜなら教皇は人々に信仰を権限をもつからである。異端が人々に強制され、キリスト教世界が破滅しかねない。そのため、教皇は異端の嫌疑をかけられた時点で、権力の行使を停止させられなければならない。また、一般の信徒にも義務が課せられる。誰かが教皇や高位聖職者の異端的見解を正しくも指摘した場合は、その人物と連帯しなければならない。正統信仰の名の下での団結が、キリスト教世界を維持する役割を果たすであろう。
 ヨハネス22世に続くベネディクトゥス12世は、オッカムの懸念をさらに増す決定を下した。教義の正統性は、まったく排他的に教皇が決めるものとしたのである。これでは、異端が正統とされてしまう。このような決定権を教皇権がもつはずがない。そこでオッカムは教皇権の及ぶ範囲を、聖書の分析を通して確定していく。それは同時に教皇権と世俗の権力の関係を定めることにもなった。というのも、オッカムによれば、教皇が異端となった場合は、神聖ローマ皇帝が介入すべきだからである。しかし世俗権力ができるのはここまでである。ここを超えて、世俗権力が人間を教化することはできない。
 では教皇権はなにができるか。ここで本書の記述がうまく消化できなくなる。本書によれば、教皇権は正統と異端の線引きを決定することはできない。それは文書によってあらかじめ決定されている。しかし、文書から読み取れる正統な教義を、信徒に強制することが教皇には許される。実際、これが許されるという事実に基いて、教皇権の停止が説かれていた。しかし、オッカムは同時に、一人ひとりの信徒に信仰の自由を認めていたともいう。たとえば、自らの正統信仰に確信をもっていれば、それを捨てる義務はない。なぜなら納得せずに教義を撤回しても、それは良心に反する行為となり、それゆえ倫理的な行いとならないからである。それゆえ、一般信徒は異端の嫌疑をかけられたからといって、即座にどうこうなるわけではない。信仰を強制されない。以上をまとめるとどうしても、教皇は一般信徒に信仰を強制できると同時に、信仰を強制できないことになってしまう。
 おそらくどこかで私は読みまちがいをしているのだろう。これの修正は宿題としたい。

激変論者を救う古典 Frans van Lunteren, "Geology and Christianity"

 ホーイカースの『自然法と神の奇跡』を振り返る論考を読む。この本は、地質学の歴史記述における偏った記述を正すことを狙っていた。伝統的な歴史記述は、斉一説の側に立ってなされてきた。ハットン、プレイフェア、ライエルに代表される立場だ。この立場によると、地球の過去に起きた事象は、現在の事象と同じように説明されねばならない。彼らの標的となったのは激変論者であった。キュビエ、セジウィック、バックランドの立場である。批判者からすると、この立場は過去の事象を、現在の事象とまったく異なるものにしてしまうことで、過去を理解する可能性を閉ざしてしまっているというのだった。

 しかし、この対立図は精査には耐えられない。激変論者は、過去において現在と違う自然法則が通用していたと言っていたのだろうか。そうではない。彼らも自然法則が一貫していることは認めていた。彼らが認めなかったのは、その自然法則にしたがって起こる事象の規模や、そのような事象が起こる頻度が、過去から現在にいたるまで一定であるという考え方であった。むしろ彼らは、同じ自然法則に乗っ取りながらも、自然世界の環境は大きく変化すると考えるのである。このような立場から見ると、斉一論者の説明には不備があった。もし過去から未来にいたるまで、起こる事象の規模などが変わらなかったとすると、どうして化石の証拠から、種が大きく交代しながら、しかも交代過程が決して循環せずに、直線的に現代にいたるなどということが起こるだろうか。この点をハットンやライエルはうまく説明できていなかった。

 伝統的な説明は、激変論者は聖書の記述を重視する宗教側であり、斉一論者は科学の側に立つように描きだしてきた。しかしこれも歴史の実情と食い違っている。たとえばハットンの斉一説は、明らかに彼の宗教的な信条に裏打ちされていた。またそもそも宗教的な前提が科学の発展とあいいれないわけでもない。キリスト教が有する直線的な歴史の観念は、地球の歴史が(循環せずに)直線的に現代にいたっていると考えるのを容易にした可能性がある。

 こうしてホーイカースは、激変論者とキリスト教の信仰の果たした役割を正当に評価するように要求するのだった。

 ここまで読むと、ホーイカースの洞察が、近年のマーティン・ラドウィックの研究に引き継がれている事がわかるだろう。実際ラドウィックは、ホーイカースの研究はパイオニア的なものだと認めている。ラドウィックが成し遂げたことをみるならば、それを支えたホーイカースの研究を科学史の古典と認めても問題あるまいと、著者は言うのだった。

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