法廷に立つ天文学者 Rublack, The Astronomer and the Witch, ch 12, #1

The Astronomer & The Witch: Johannes Kepler's Fight for His Mother

The Astronomer & The Witch: Johannes Kepler's Fight for His Mother

  • Ulinka Rublack, The Astronomer and the Witch: Johannes Kepler’s Fight for His Mother (Oxford: Oxford University Press, 2015), 245–255.

 ケプラー魔女裁判で発揮した技能を分析した記述を読む。ケプラーは、母カタリーナが魔女の嫌疑をかけられた裁判で、彼女の弁護のために文書を作成した経験がある。この際ケプラーはすべての証言を文書で提出させるよう求めた。証言の分析は、彼が長年行ってきたことだった。古代の文献が伝えるさまざまな情報のうちなにが信頼できるかを、文献学をもちいて選り分けることに膨大な時間を費やしてきた。また、天文学の領域でも、報告された観察結果が信頼できるか判定するためには、いつ、どこで、だれが、誰と一緒に、どんな目的で観察を行ったかを見定めなければならなかった。このような条件への配慮は、自分の観察結果を信頼できるものにするためにも欠かすことができなかった。ケプラーは文献学や天文学を犠牲にして法廷に立ったのではない。それらの領域での長年の経験が、彼を手練の弁護人たらしめていたのだ。

 母にかけられた疑いをケプラーは次々と退ける。ある人物を死刑にいたらしめたり、拷問にかけるためには、十分な証拠がなければならない。証拠の判定にあたっては、どれほど有能な人間であっても誤りうるという想定のもとで慎重を期さねばならない。だがこの原則が母の件ではまったく守られていない。悪評を証言した者の多くは、若年であり、信頼に足る証言をできるとは考えられない。年配の女性の証言もあるが、彼女たちが証言している事案が起きたのは数十年昔であり、記録と突き合わせるなら、彼女たちはそのころ7歳とか10歳であったりする。やはり信頼できない。そもそも神聖ローマ帝国の法は、ある人を死刑にいたらしめるためには、最低でも二人の信頼に足る証言が必要だとしており、しかも証言者はみな男性でなければならないと定めているではないか。

 しかも証言が出てきた時期を調べてみると、大半は、ある家族が魔女ではないかという噂をたてはじめてから出てきたものである。法学の基本的な見解からすると、信頼できる証言であるならば、そのような噂が広がる前から存在していなければならない(噂に引きづられている可能性があるため)。こう考えてみると、非常に古くから母と交際をもっている老人たちが、母を魔女だと考えていないということは重みをもってくるのではないだろうか。

 なるほど母には粗暴なところがあり、人様の家に乱入してしまったことはある。しかしこのことと、彼女が魔女であるということは別の問題である。もしこれで魔女とみなされるならば、おせっかいやきな女性はみな魔女ということになってしまうだろう。また、母が魔術によって人々を病気にかからせたという嫌疑も信頼に足らない。それらの症状はみな現在の医学によって説明可能である。そもそも人間や家畜はよく病気にかかる。

 母が呪文を唱えながら、怪しげな薬草を処方しているという訴えはどうだろうか。まず、これは彼女の長年の経験の蓄積の上に立つものであり、学問的な知識とはいえないものの、それなりに有効性のあるものである。実際、彼女が使っている薬剤の材料を調べたところ、現在の医学が有効性を認めているものであったこともあった。処方のさいに彼女がまじないをとなえているのはたしかである。しかしこれは祈りの言葉だと考えるべきだろう。そこには異端的なものはない。それは伝統的なものだ。もし問題があるとしたら、それがカトリックの伝統から来ていることかもしれないが、そのことは魔術の実践を何ら証明しない。

 自然に関する知識が、実験や観察に依拠しなければならないとなったとき、ではその実験や観察の報告の信頼性はどう確保されるのかが問題となった。その判定基準として、法廷での証言の信頼性の判定基準が援用されるということがあった。このように指摘する歴史研究は多い。法学と科学のそのような連合が現実に存在していたことを、法廷に立つ帝国付数学者の姿は伝えている。

年代学がつくる文芸共和国 Grafton, "Chronology, Controversy, and Community in the Republic of Letters"

Worlds Made by Words: Scholarship and Community in the Modern West

Worlds Made by Words: Scholarship and Community in the Modern West

  • Anthony Grafton, "Chronology, Controversy, and Community in the Republic of Letters: The Case of Kepler," in Worlds Made by Words: Scholarship and Community in the Modern West (Cambridge, MA: Harvard University Press, 2009), 115–136.

 ケプラーの活動のうちで、年代学がもっている意味について考察した論文を読む。ケプラー研究が盛んになるなかにあっても、彼の年代学研究を調べる歴史家は少ない。年代学はとにかくテクニカルなのだ。その人を寄せつけない性質は、初期近代からすでに認識されていた。しかし、まさにその困難さがケプラーを引きつけていた。また年代の同定にあたっては、天文学上の記録との突き合せが重要な意味をもつため、この領域は天文学者たるケプラーの守備範囲であったといえる。

 ケプラーは長きにわたって年代記に関心を持ちつづけた。しかし、彼は膨大なノートを残しつつも、結局この分野に関してまとまった著作を出版することはなかった。出版されたものは、同時代の学者たちとの手紙のやりとりをもとにした著作にとどまる。しかしまさに、この書簡形式という点にこそ、ケプラーが年代学に認めていた意義があるのではないかとグラフトンは説く。年代学の問題について議論を続けることが、互いに対立しながらも、なお敬意を払いながら交際を続けることのモデルとなりうるとケプラーは考えていたのではないかというのだ。

 この点でとりわけ興味深いのは、ケプラーがイエスの生年の確定にあたって、イエズス会の学者の計算を支持し、それを天文学上の証拠で補強した事実である。この生年(紀元前4年)は、カルヴァン派のヨセフ・スカリゲルが計算した年とは異なっていた(紀元前2年)。ルター派として、同じプロテスタントに属するケプラーが、尊敬してやまなかったスカリゲルの見解を拒絶し、イエズス会の側に立ったというのはショッキングであった。このことは、当時イエズス会側が、スカリゲルの著作を否定する学問上のキャンペーンを張っていたことを考えるとさらに驚くべきものとなる。実際、ケプラーによるスカリゲルの否定は、イエズス会側に喧伝されることになる。もちろん、この動きもケプラーは支持しなかった。彼は必要以上にスカリゲルを批判することをよしとしなかった。

 ケプラーにとって、年代学とは、見解の対立のみならず、宗派の対立もまた認めながら、それでも友好的に学問的なやりとりを続けるにあたってのモデルとなる学問であった。もちろん、そうやって作られた文芸共和国のなかに、多くの亀裂が走っていたことは認めなければならない。また、ケプラーすら時として関係を壊してしまうような言葉を発してしまったこともある。なによりも、彼の融和的な姿勢は、カトリックプラハで皇帝の庇護を受けたルター派の数学者という特権的な身分によってこそ、可能になったものであった。それでも、年代学という科学と人文学が交差する点で、後の学問共同体のモデルとなるようなやりとりのコードが形成されていたことを私たちは見逃すべきではない。

線香花火のような人生 村山「儚さと空しさと満たされなさと」

  • 村山達也「儚さと空しさと満たされなさと 人生の意味と死の関係についてのごく部分的な考察」『東北哲学会年報』No. 28、2012年、1–13ページ。

 人生の意味について、儚さという観点から考察した論文を読む。人生が儚く、空しいとは、どういう心情なのだろうか。なにか喜びや充実感を日々感じても、いつか死ぬのだから、喜びは儚い。そんな喜びを多く積み上げられたとしても、人生は儚いと感じてしまう。ここで儚いとは、愛おしかったり素晴らしかったりするものを享受はできるものの、それを味わい尽くすには十分な時間が与えられておらず残念だと思われることを指す。だとすると人生が儚いとは、いろいろな喜びがあっても、やがて死によって生が断ち切られてしまう以上、どう生きたとしても喜びを味わいつくすことはできず、最終的に完全な満足は得られないという心情をあらわしている。このように全体としての充足がないならば、部分の充足に意味はないと感じてしまうのは、私たちが人生をひとつの劇や楽曲のようにとらえることから来ている。これは理解できる考え方ではあるが、錯覚であると著者は考えている。「人生が完全な作品にはならないとしても、それでも人生を喜ばしく生きることはできるのである」(13ページ)。

会計検査院の権限の意味 瀬畑『公文書問題』

公文書問題 日本の「闇」の核心 (集英社新書)

公文書問題 日本の「闇」の核心 (集英社新書)

  • 瀬畑源『公文書問題 日本の「闇」の核心』集英社新書、2018年、69–79ページ。

 会計検査院の果たすべき役割を、特定秘密の問題と関連づけて論じた論考を読む。会計検査院は内閣から独立の組織であり、日本国憲法によって国の決算を「すべて」「毎年」検査するものとされている(第90条第1項)。この規定は戦前の反省を踏まえたものだ。1889年に制定された会計検査院法では、会計検査院が検査できない領域が定められた。たとえば軍の機密費である。その後、軍関係の予算の検査はさらに困難になっていった。出兵に必要な物品の調達にかかる費用については、検査が必要ないとされたり、軍事機密の閲覧をたとえ許されたとしても、そこで得た情報を報告書で使うことはできないといった決まりがつくられた。さらに戦争にあたっては、細目なしで予算を軍に与え、戦後に会計を閉めてから検査するという仕組みができた。これらの制度があったからこそ、軍は検査院や議会の検査を経ずに、多くの予算を獲得し、自由に使用することができた。会計検査院の機能不全が、いわゆる軍部の暴走の一因だった。この反省を踏まえ、戦後は会計検査院が例外なく決算を毎年検査するという規定がつくられたわけである。

 とはいえ、会計検査院が厳密な検査を行えない領域が、現在でもあるという。たとえば内閣官房機密費、外務省機密費、警察庁機密費である。このような領域のひとつに特定秘密を組みこむことを内閣官房は探った。実際、特定秘密保護法の条文上は、決算の証拠書類に特定秘密が含まれていた場合、書類を会計検査院に提出しないことが許される書き方になっている。しかしこれは憲法の規定に反するのではないか。毎日新聞の報道など、紆余曲折を経て、最終的には書類の提供を拒むことは実務上は考えられないという回答が首相から引き出された。

 著者の主張は2点ある。第一に、条文が憲法と整合しないのは法律の不備なのだから改正すべきである。第二に、そのような不備を明るみにだし、それを補うような答弁を政府から引き出すにあたっては、報道の役割が極めて大きいということである(この件では、毎日新聞がその役割を果たした)。

価値から生の意味へ 渡辺「歴史科学(歴史学)の方法論」

 19世紀後半に盛んにとりあげられた価値の哲学と、ハイデガーの哲学との研究を探る論考である。新カント派のヴィンデルバントとリッカートが学問の種類を2つに分けたのは、よく知られている。一つは科学の領域である。事実にもとづいて普遍的に成りたつ法則を発見する。これにたいして歴史の領域はあくまで個別的な出来事を扱うので、法則化になじまず、一見すると学問といえないように見える。これにたいしてヴィンデルバントとリッカートはこう答えた。なるほど歴史学は一回きりの出来事を扱う。しかしその出来事を意味を解釈する点を忘れてはならない。この解釈は価値にもとづいて行われる。この価値は普遍性をもつ。そのため歴史学も普遍を扱う学問なのだと。
 歴史を学問とみなすための考察は、ラスクに引き継がれた。彼はこれを論理的に行おうとする。この論理的なやり方の要点は、素材と形式という質料形相論の枠組みで、歴史学を理解しようとする点にあるようだ。素材は個々の経験である。それに意味を与えるような価値が、形式として理解される。
 ここから私の理解が及ばなくなるのだが、どうもこの意味の領域の話がジンメルから来ているようだ。個々の出来事が普遍的な価値に関係しているということは、出来事がもつ意味として現れてくる。こういう(モノとしてあるという意味での)実在でもなく、(空想も含むという意味での)主観でもないような、客観性をもつ理念の領域というものを、ジンメルは「第三領域」と読んでいた。このジンメルの理解がリッカートとラスクには引き継がれていたという。
 最後に、以上の議論とハイデガーの関係が触れられる。ハイデガーは、ヴィンデルバントやリッカートと同じく、自然科学と歴史学をともに学問とみなしながら、区別していた。またこの区別に関する考察が、論理学的な性質をもつと考える点で、ラスクの考え方を引き継いでいる。最後に存在の意味という視点は、ラスクの意味についての議論を介して、ジンメルの第三領域につながっている。これらの問題意識を引き継ぎながら、そこに時間という要素をつけ加えたのが、ハイデガーの独自性であり学問的な野心であった。

意味ある人生を求めて 村山「人生の意味の分析哲学」

現代思想 2017年12月臨時増刊号 総特集◎分析哲学

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 分析哲学の領域で、人生の意味の問題がどう扱われているかを明晰にまとめてくれている。まったく知らない分野(そんな分野ばかりなんだけど)への案内として、大いに勉強になった。流れとしては、まず「どんな道徳にしたがって生きるべきか」を問うような倫理学は、それだけだとただ道徳的に生きる人間だけに価値を認めることになってしまうけれど、私たちが価値や意味ある人生というときには、道徳以外にもいろいろな基準があるだろうという問題提起からはじまる(スーザン・ウルフの論文)。そこから、ではどういうときに私たちは人生の価値を認めるのだろうか、とか、その価値は人生の全体にたいして認定されるのか、それとも部分にたいしてかという問いがあらわれてくる。また、私たちが人生に意味を認定するのはいいとして、その時認定されているものは私たちの主観的な思い込みなのか、それとも私たちから独立した存在として認められるのか、などといった問いも立てることができる。最後に、有意義だと思って打ち込んでいる活動に、ふとしたときにバカバカしさを感じてしまうことがある(「なんでこんなことに必死になっているのだろう?」のように)が、どうしてこんなことを感じてしまうのかも分析されなければならないという。

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改革を刷り上げること 加藤「ルターの宗教改革」

 宗教改革といえば何が思い浮かぶだろうか。いろいろな可能性があるだろうが、その一つにマルティン・ルターローマ・カトリックの教えに反旗を翻したという事実は間違いなく含まれるはずだ。長きにわたって西洋で維持され、そのため硬直もしていた教義に、ルターが新たな教えをもって立ち上がった。その核心はなんだったのか?たとえば信仰義認とはなにか?こう話を進めると、いきおい議論は精緻に編み上げられた神学教義同士の対抗に集中する。

 しかし対抗は別様にも語れるはずだ。ルターは新たな教えを抱いていただけではない。新たなメディアと手をたずさえていた。印刷機である。ルターと印刷機の関係に着目することで、改革の別の側面が見えてくる。そう、宗教改革とは膨大な紙の束を吐き出しほかならなかった。

 加藤はルターがいかに新たなメディアを使いこなしていたかを指摘する。短いパンフレットに、メッセージを簡潔にしるし、俗語で発信する。仕事の質の高い出版業者に、ヴィッテンベルクに支店を出させる。著名な画家に木版画を作成させる。18年から19年に出した「45の著作は、291もの版を重ねるのだ」(20ページ)。じつに「ヴィッテンベルクでビールを飲んでいる間に、みことばが人々のあいだで働いた」(27ページ)と彼に言わしめるほど、メッセージは人口に膾炙した。

 だが吐き出されたとほうもない紙の束は、彼がビールを飲む間に、制御不可能な仕方で働きはじめていた。それは人々を扇動した。暴力をもって改革をなしとげようという機運が高まった。これをおさえこまねばならない。ルターはどこに手をつけるべきか熟知していた。印刷機だ。手はじめに論敵の出版物の禁止を実現する。やつに紙の束を吐き出せるわけにはいかない。そして新たなメッセージを発信する。暴力的な蜂起に加担する者は、「誰でも刺し殺し、打ち殺し、絞め殺しなさい」(34ページ)。

 この残酷なメッセージは、敵対者たちを歓喜させた。ついに反逆者が残虐な本性をあらわした。ここでカトリックはなにをしたか。やはり印刷機に手をのばした。ルターのメッセージをあえて印刷し、その酷薄さを喧伝するのだ。

 古代人は明敏にも、神のひとりに「噂」を数えた。じつに宗教改革は噂を味方につけようとする抗争であった。だが神を人間が制御できるはずもない。つねに「噂は諸邦の民をいくとおりもの話でみたした」(『アエネーイス』4歌189行)。こうして、ルターについてもいくとおりもの話が生みだされた。その顛末を、加藤の論考は描きだしている。