オッカムの正統論 将基面『ヨーロッパ政治思想の誕生』

ヨーロッパ政治思想の誕生

ヨーロッパ政治思想の誕生

  • 将基面貴巳『ヨーロッパ政治思想の誕生』名古屋大学出版会、2013年、187–208.

 中世の政治思想についての基本書から、オッカムを扱った箇所を読む。大胆なパラフレーズにより、基本書のお手本ともいってよい明晰さを獲得している。

 「政治」に関する問題をオッカムが論じはじめたのは、教皇ヨハネス22世に対抗するためであった。教皇フランシスコ会の清貧の教義を異端であると宣言したのにたいし、お前こそが異端だと反論したのである。このように論じるために、オッカムは異端の意味を転換させた。というのも、従来のように異端とは教会による異端宣告に他ならないとすると、教皇を異端視することが不可能になってしまうからである。そこでオッカムは、異端とはキリスト教の教義から逸脱した状態だと再定義する。教義は聖書などの文書の記述で決まる。文書の記述は、必要な知識を備えた者であれば、誰でも理解できる。
 ここからいくつかの結論が引き出される。まず当然、教皇も異端になりうる。しかもその異端認定は、文書を読める者であれば誰にでもできる。すると、(オッカムの理解では現実にそうであったわけだが)異端の教皇に、正しい聖書理解をもった多くの人々が対峙するということが起きうる。これは実に危険な状況である。なぜなら教皇は人々に信仰を権限をもつからである。異端が人々に強制され、キリスト教世界が破滅しかねない。そのため、教皇は異端の嫌疑をかけられた時点で、権力の行使を停止させられなければならない。また、一般の信徒にも義務が課せられる。誰かが教皇や高位聖職者の異端的見解を正しくも指摘した場合は、その人物と連帯しなければならない。正統信仰の名の下での団結が、キリスト教世界を維持する役割を果たすであろう。
 ヨハネス22世に続くベネディクトゥス12世は、オッカムの懸念をさらに増す決定を下した。教義の正統性は、まったく排他的に教皇が決めるものとしたのである。これでは、異端が正統とされてしまう。このような決定権を教皇権がもつはずがない。そこでオッカムは教皇権の及ぶ範囲を、聖書の分析を通して確定していく。それは同時に教皇権と世俗の権力の関係を定めることにもなった。というのも、オッカムによれば、教皇が異端となった場合は、神聖ローマ皇帝が介入すべきだからである。しかし世俗権力ができるのはここまでである。ここを超えて、世俗権力が人間を教化することはできない。
 では教皇権はなにができるか。ここで本書の記述がうまく消化できなくなる。本書によれば、教皇権は正統と異端の線引きを決定することはできない。それは文書によってあらかじめ決定されている。しかし、文書から読み取れる正統な教義を、信徒に強制することが教皇には許される。実際、これが許されるという事実に基いて、教皇権の停止が説かれていた。しかし、オッカムは同時に、一人ひとりの信徒に信仰の自由を認めていたともいう。たとえば、自らの正統信仰に確信をもっていれば、それを捨てる義務はない。なぜなら納得せずに教義を撤回しても、それは良心に反する行為となり、それゆえ倫理的な行いとならないからである。それゆえ、一般信徒は異端の嫌疑をかけられたからといって、即座にどうこうなるわけではない。信仰を強制されない。以上をまとめるとどうしても、教皇は一般信徒に信仰を強制できると同時に、信仰を強制できないことになってしまう。
 おそらくどこかで私は読みまちがいをしているのだろう。これの修正は宿題としたい。