自由になるための入り口 國分功一郎『スピノザ 『エチカ』』

 

 「100分 de 名著」シリーズから、スピノザの『エチカ』を解説したものがでました。難解な学説が、芸術的といっていいほど見事に説明されています。『エチカ』への入り口として、まず読むべき書物の地位を獲得するのではないでしょうか。以下、(少し私の言葉づかいが混じってしまっていますが)、全体の内容を紹介しておきます。

 第1回「善悪」では、自然のうちには、それ自体として善いものや悪いものはないという話からはじまります。善悪はあくまである特定の時点でのモノとモノの組み合わせに関して生じるものだといいます。たとえば、ある時点でのある人にとっては、薬は善であるというように決まります。しかし、別の時点では、おなじ人にとってすら薬は悪であるでしょう。このように、善悪は常に変化する事物のその都度のあり方から決まってきます。
 第2回「本質」では、変化から出発して、スピノザがいうところの本質が理解されるという話題が展開されます。事物というのは、周りから刺激を受けながら、常に活動のあり方を変化させています。不変なのは、変化のなかでも自己の存在を維持しようとする傾向であり、これが本質になります。
 個物は互いに刺激を与えあってあり方を変化させ続けます。この意味で、個物は互いに独立した存在ではありません。刺激のやり取りの巨大なネットワークの一部です。このネットワークの全体は、外部をもちません。これをスピノザは神とします。この神がネットワークの各部位で取る様々なあり方が個物ということになります。これに関して、見事な説明を引用しましょう。

神を無限に広がる一枚のシーツのようなものにたとえれば分かりやすいかもしれません。シーツに皺が寄ると、さまざまな形や模様ができますが、それが変状としての個物です。シーツを引っぱると皺は消え、また元の広がりに戻りますが、シーツは消えません(56ページ)。

 第3回「自由」では、意志に関する通俗的な理解を批判しながら、スピノザの自由の概念が解説されています。自由というのは選択肢のなかから好きなものを意志によって自発的に選ぶということではなく、むしろ、行為のうちで自己のあり方がよりどれだけ多く表現されるかの度合いだといいます(これだけではなんのことか分からないと思いますので、詳しくは本文のこれまた見事な説明をどうぞ)。
 第4回「真理」では、デカルトの真理観と対比させて、スピノザの真理観が説明されます。デカルトは、真理の公共性を重んじました。彼は要するに、定規を当てたり、秤ではかったりするという公共の基準に照らし合わせてはじめて私たちは真理を得られると考えていました。そのような基準のないところには、真理を認めませんでした。それにたいしてスピノザの真理は、公的な基準に照らし合わされるようなものではありません(基準を置いてしまうと、基準が本当に公的なものかを判定するために、判定のためのさらなる基準が必要になり、無限後退に陥る)。そうではなく真理を獲得したら、自ずと私たちはいま真理を獲得していると分かるというのです。この実感が私たちを変えていきます。この意味で、スピノザは真理の公共性よりも、それが私たちを変化させる点に着目しているといえます。

 以上が本書の概要です。全体として説明がきわめて分かりやすいです。また、スピノザの学説がもつ含意を、身近な例をまじえながら見事に説明できています。構成としても、『エチカ』第1部の神から入るのではなく、4部の善悪から話をはじめるのも、(先例があると認めつつも)卓見だと感じます。

 一つ私と考えと違うなと思ったのは、スピノザの特殊性についてです。著者は、スピノザの考え方は、他の哲学者の考え方とは、アプリケーションのレベルではなく、OSのレベルで違うとしています。また、スピノザは彼の著作を読んだこともない人々に批判されたとしています。まず後者の点に関しては、すくなくとも当時のスピノザの批判者のうちには、彼の著作を精読していた者たちがいたということを、強調しておきたいです。私が実際に見た例では、デカルト主義者の神学者クリストフ・ウィティキウスの『反スピノザ』は、『エチカ』への深い理解をしめしています。また、ユトレヒトデカルト主義者たちが、『神学・政治論』を貪るように読んでいたことも知られています(参照)。
 むしろ私としては、なぜこんなにみなスピノザを理解できてしまうのかと驚いてしまうくらいです。あんなにワケが分からない書き方がされているのに。一つには、デカルトをよく理解していた人々にとって、スピノザの哲学はその一つの発展形として理解しやすかったのでしょう。それがあってはならない発展形であったとしてもです。
 すみやかな理解のもう一つの理由は、デカルト主義者に限らず、哲学者たちがなんとなく予感していたことを、スピノザが見事に定式化してしまったからではないかというものです。とくに個別的なものしかない物質の世界と、普遍をあらわす概念によって記述される真理の世界の関係がどうしても説明できないと苦しんでいるなか(イデアの分有とか、個別的知性と普遍的知性の想像力による接続といったことがいろいろいわれていました)、神のうちでの並行論のような道具立てが出てきたときに、「それをしたらうまくいくだろうが、しかしいくらなんでも…」という反応になったのではないでしょうか。ここを突き詰めて考えるとスピノザに接近するという見通しは、ライプニッツがほぼおなじ結論に達していることからも傍証されるように思われます。
 以上のように考えると、違うOSであるといえるほどにスピノザが特殊であるとは言い切れないのではないかと思えてくるのです。むしろ、哲学の歴史の中で予感されていたナニカをおもてに引きずりだしてしまったというのが実情に近いのではないか。だからこそすみやかに理解され、強い反発を招いたのではないでしょうか。
 このようなスピノザ哲学史のなかでの位置づけについては、この後ライプニッツの『弁神論』を読みながら、しっかりと定式化できていけばいいと考えています。しかしそのような余談はどうでもよく、とにかく本書を『エチカ』への入り口として強く勧めます。