- Kai-Ole Eberhardt, Christoph Wittich (1625-1687): reformierte Theologie unter dem Einfluss von René Descartes (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 2018), 259–265.
デカルト主義の神学者であるクリストフ・ウィティキウスについての基本書から、サミュエル・マレシウスとの論争を扱った部分を読み始める。ここで取り上げる部分に関しては、ジョナサン・イスラエルの研究によるところが大きいものの、有用なまとめとなっている。
ウィティキウスは、1670年から師であるサミュエル・マレシウスとの論争を開始することになる。この論争は、マレシウスが70年に『デカルト哲学の濫用について』を出版してウィティキウスのデカルト主義神学を批判し、それにたいしてウィティキウスが直ちに自己を弁明する『平和の神学』を71年に出版したところからはじまった。
この論争の前史には、デカルト主義に対する反対の強まりがあった。1660年代にはデカルト主義は抵抗にみまわれながらも、支持を拡大していた。しかし、60年代の終わり頃から保守派が勢いを回復する。理由の一つは政治的なもので、寛容を掲げる共和国の政策が見直されたことであった。
もう一つの理由は、デカルト主義の過激化である。これが広く認められるようになったきっかけは、ロドウェイク・メイエルが匿名で『聖書の解釈者としての哲学』を1666年に出版したことであった。メイエルは聖書を解釈する基盤は聖書自体にあるという考えを批判し、聖書にある曖昧さを解消して、確かな解釈に至るためには理性(哲学)に依拠しなければならないと主張した。ここからメイエルは無からの創造の否定や、三位一体についての論争の無意味さの宣告といった帰結を引き出した。これはデカルトに代表される理性主義の帰結だとみなされた。
『聖書の解釈者としての哲学』の出版をきっかけとして、従来はデカルト主義に好意的であった者たちも、対立する陣営に回ることになる。従来からデカルト主義を批判していたヴォエティウスやアンドレアス・エッセニウスは、自分たちの懸念がまさに現実化したとしいて、デカルト主義の神学への攻撃をさらに強めていった。
コクツェーウス・デカルト主義の神学者の側では[デカルト主義とコクツェーウスの神学が正確にいってどういう理屈でセットにされていたのかは、私(坂本)にはまだくわからない]、『聖書の解釈者としての哲学』の著者と自分たちを区別する試みがなされるようになる。たとえば、ライデンのヘイダーヌスやコクツェーウスは『聖書の解釈者としての哲学』を断罪した。また、同書が67年にオランダ語訳された翌年には、ユトレヒトのヴォルツォーゲンによる批判が出版されることになる。ヴォルツォーゲンによると、聖書の解釈にあたって理性が決定打となるのは、以下の条件が満たされるときに限られる。第一に、哲学の側で結論が疑いの余地なく論証されている。第二に、問題となっている論点が、三位一体といったそもそも理性的な理解を受け付けない秘儀に該当していない。これらの条件を無視して、『聖書の解釈者としての哲学』は理性を聖書解釈の絶対的な基礎としているとして、ヴォルツォーゲンは批判したのだった。しかしこの立場もまた、理性に大きな役割を認めすぎており、ソッツィーニ主義に接近していると批判された。
ヴォルツォーゲンに寄せられた批判にたいして、コクツェーウス・デカルト主義の神学者たちは弁護に回ることになる。コクツェーウス、ヘイダーヌス、ベッカー、ビュルマン、そしてウィティキウスらである。彼らは最終的に、1669年にヴォルツォーゲンが正統派から逸脱していない旨を宣言する文書に署名した。マレシウスもこの文書に署名している。しかし、『聖書の解釈者としての哲学』の出版以降、マレシウスはデカルト主義から距離をとり、その批判者になろうとしていた。この文書への署名が、かつての弟子であるウィティキウスと彼が連帯した最後の出来事となった。