ウィティキウスから『神学政治論』へ Eberhardt, Christoph Wittich, "Die Auseinandersetzung mit Samuel Maresius" #5

 

 

  • Kai-Ole Eberhardt, Christoph Wittich (1625-1687): reformierte Theologie unter dem Einfluss von René Descartes (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 2018), 274–280.

 これまで、マレシウスとウィティキウスの論争の原因として、(1)『聖書の解釈者としての哲学』の出版、(2)コクツェーウス・デカルト主義者との論争、(3)ヴォエティウスとの和解を見てきた。しかし、さらに直接的な原因がある。それは、ウィティキウスがナイメーヘン大学での講義でマレシウスの『神学講義、あるいは神学全体の短い体系 Collegium theologicum: Sive breve systema universae theologiae』(初版1645年)を教科書として用いながら、講義内で同書をデカルト主義神学の立場から批判したことであった。ウィティキウスの講義内容は『体系』に対する『注記』(Annotationes)として筆記され、これがナイメーヘン大学だけでなく、マレシウスのいるグローニンゲン大学にも持ち込まれることになる(持ち込まれていることにマレシウスが気がついたのは1669年のことであったものの、実際には遅くとも1667年にはグローニンゲンでも使われていた)。

 かつての弟子からの批判に憤ったマレシウスは、1670年に『デカルト哲学の濫用についてDe abusu philosophiae cartesianae』を出版する。批判の対象としてウィティキウスを名指しはしていないものの、だれが攻撃されているかは明らかであった。同書の序論でマレシウスは、自分は二つの危険なグループからネーデルラントの改革派教会を守るのだと述べている。その二つのグループとはコクツェーウス主義者たちと、デカルト主義者たちであった。とりわけ後者は、キリスト教徒であるよりもむしろデカルト主義者とみなされることを望むことによって、『聖書の解釈者としての哲学』のような危険な書物を生み出したとされる。

 マレシウスによると、デカルト主義が単に哲学上の立場として支持を拡大しようとしているあいだは、それに取り立てて反対する理由はなかった。しかしデカルト主義者たちが、デカルトの方法を神学に適用するようになり、実際に神学部でもデカルト主義の神学が力をもつようになったために、批判する必要が生じたという。そのような状況のなか、「ある極めて高名な人物」(ウィティキウスのこと)が、自分の『体系』に対する『注記』を著して、自分を若い学生たちの面前で侮辱するということをおこなったのだった。ここから分かるように、マレシウスの批判には正統派を守るといういわば公的な側面と、個人的に受けた攻撃に対して反論するといういわば私的な側面があったといえる。

 『濫用』での批判に対してウィティキウスは『平和の神学』の出版をもって応えた。それに対してさらにマレシウスが反論する。71年の『神学上の論争の主要点についての小目録 Indiculus praecipuarum controversiarum theologicarum』と、73年の『体系』の増補版である(この増補版[Systema theologicum cum annotationibus]では、ウィティキウスが『体系』に対して行った『注記』に対抗する形で、マレシウス自身が自著に注記を施すということを行っている)。増補版での序文では、コクツェーウス主義者たちとデカルト主義者たちが行っていることは、もはや新たな宗教改革であり、結果的に正統派の信仰を破壊してしまうだろうと述べている。また『小目録』では、ウィティキウスの『二つの論文 Dissertationes duae』(1653年;デカルトの渦仮説と聖書の記述は矛盾しないなどの主張を含む)が、デカルトからくる理性主義の過激化を準備し、『聖書の解釈者としての哲学』とスピノザの『神学政治論』を生み出したとしている。

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マレシウスとヴォエティウスの和解 Eberhardt, Christoph Wittich, "Die Auseinandersetzung mit Samuel Maresius" #4

 

 

  • Kai-Ole Eberhardt, Christoph Wittich (1625-1687): reformierte Theologie unter dem Einfluss von René Descartes (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 2018), 271–273.

 マレシウスがデカルト批判に乗りだした理由の最後のものは、ヴォエティウスとの和解であった。二人は激しく対立していたものの、すでに論争は継続されておらず、またヴォエティウスの影響力も低下しはじめていた。このようななか、『聖書の解釈者としての哲学』が出版され、またアルティングとの論争の中でデカルト・コクツェーウス主義の危険性への認識を深めていたマレシウスは、正統的な神学を防衛するためには、見解の相違には目をつぶってヴォエティウスと和解するのが得策と考えるようになる。こうして両者は1669年に和解したのだった。

 しかしだとすると、69年の春にマレシウスが、デカルト主義者であるヴォルツォーゲンを擁護する文書に署名していることは驚きである。これはおそらく、マレシウスがデカルト主義の神学への適用には強い反発を覚えていても、デカルト本人への敬意を失っていなかったことを要因としている。このため、デカルトに依拠して『聖書の解釈者としての哲学』を論駁しようとしたヴォルツォーゲンの試みを、マレシウスは一定程度評価することになったのだと思われる。とにもかくにも、マレシウスの標的は、デカルト主義の哲学を改革派の神学の内部で濫用しようとする者となる。それがウィティキウスであった。

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マレシウスとコクツェーウス Eberhardt, Christoph Wittich, "Die Auseinandersetzung mit Samuel Maresius" #3

 

 

  • Kai-Ole Eberhardt, Christoph Wittich (1625-1687): reformierte Theologie unter dem Einfluss von René Descartes (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 2018), 268–271.

 マレシウスがデカルト主義に敵対的となった第二の理由は、ヨハンネス・コクツェーウスとの関係の悪化があった。コクツェーウスの神学は、当時デカルト主義と親しいととらえられていた。二人の関係は当初は良好なものだった。互いに著作を送りあっていたし、書簡も交わしていた。マレシウスは著作のなかでコクツェーウスに言及もしていた(ただし、その学説を詳細に検討しているわけではない)。コクツェーウスが1650年にライデン大学の教授に任命されたことで、そのポストに就きたかったマレシウス都の関係は冷え込んだものの決裂したわけではなかった。

 しかし、1663年に二人のあいだで論争が起こる。コクツェーウスの学生が行った討論にたいしてマレシウスが攻撃したのである。これにコクツェーウスが反論を送ることになる。その反論書をマレシウスは大学の講義で検証し、65年にはコクツェーウスにたいしてソッツィーニ派に接近しているのではないかと警告を与えた。決裂が決定的なものとなったのは、マレシウスが1668年にグローニンゲン大学の同僚であるヤコブス・アルティングと衝突して以後のことだった。アルティングはトビアスアンドレアエの学生であり、コクツェーウス・デカルト主義者であった。アルティングはコクツェーウスを引きながら、千年王国的な見解を擁護し、マレシウスはそれを批判した。論争は最終的に、ライデン大学の神学部に助言を求めることで、収められた。意見を求められたライデンのコクツェーウスとヘイダーヌスは、アルティング寄りの裁定を下し、マレシウスには自重が求められた。これに憤慨したマレシウスは、コクツェーウスへの批判を再開することになる。その際には、アルティングがまさにそうであったように、コクツェーウスの神学はデカルト主義とセットとみなされたのだった。

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メイエルを批判するマレシウス Eberhardt, Christoph Wittich, "Die Auseinandersetzung mit Samuel Maresius" #2

 

 

  • Kai-Ole Eberhardt, Christoph Wittich (1625-1687): reformierte Theologie unter dem Einfluss von René Descartes (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 2018), 266–268.

 マレシウスとウィティキウスの論争の前史を見たのち、著者はマレシウスがウィティキウスを批判するに至った直接の原因を探っていく。最初の原因は、やはり『聖書の解釈者としての哲学』の出版である。

 この書物の出版以前、マレシウスはデカルト主義に好意的であった。彼はヴォエティウスと対立しており、そのため敵の敵は味方ということで、ヴォエティウスに攻撃されていたデカルトとは良好な関係を築いていた。また、デカルトの死後も、デカルト主義者を表立って攻撃することはなかった。

 しかし、『聖書の解釈者としての哲学』の出版後、デカルト主義に対するマレシウスの態度は硬化しはじめる。メイエルの著作の出版の翌年(1667年)に彼が主催した討論の記録を見ると、確かにメイエルをデカルトと同一視すべきではないとしている。というのも、メイエルと異なりデカルトは理性と啓示を分けることを主張していたからである。また、懐疑主義に対してコギトの議論を使って対抗するところや、心身二元論に関しては、デカルト哲学を評価してもいる。しかし、動物を機械とみなす点や、魂の座が松果腺にあると考えること、そしてコペルニクスにならって地球が太陽の周りを回るという仮説を支持している点については、デカルトは誤っていると批判している。このような主張は、すでにウィティキウスがデカルト主義の神学のうちに取り込んでいたものであった。

 さらにマレシウスは、デカルトの方法を神学に適用することに強く反対する。そもそもデカルトはこのようなことはしていなかった。また、神学の領域では懐疑を展開すべきではない。そこでは理性ではなく、聖書が聖書自身を解釈する。こうしてマレシウスはデカルト本人には好意的な言及を続けながらも、デカルト主義の神学への警戒感を深めていく。彼の立場はヴォエティウスのそれに接近していったのだった。

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過激化するデカルト主義 Eberhardt, Christoph Wittich, "Die Auseinandersetzung mit Samuel Maresius" #1

 

  •  Kai-Ole Eberhardt, Christoph Wittich (1625-1687): reformierte Theologie unter dem Einfluss von René Descartes (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 2018), 259–265.

 デカルト主義の神学者であるクリストフ・ウィティキウスについての基本書から、サミュエル・マレシウスとの論争を扱った部分を読み始める。ここで取り上げる部分に関しては、ジョナサン・イスラエルの研究によるところが大きいものの、有用なまとめとなっている。

 ウィティキウスは、1670年から師であるサミュエル・マレシウスとの論争を開始することになる。この論争は、マレシウスが70年に『デカルト哲学の濫用について』を出版してウィティキウスのデカルト主義神学を批判し、それにたいしてウィティキウスが直ちに自己を弁明する『平和の神学』を71年に出版したところからはじまった。

 この論争の前史には、デカルト主義に対する反対の強まりがあった。1660年代にはデカルト主義は抵抗にみまわれながらも、支持を拡大していた。しかし、60年代の終わり頃から保守派が勢いを回復する。理由の一つは政治的なもので、寛容を掲げる共和国の政策が見直されたことであった。

 もう一つの理由は、デカルト主義の過激化である。これが広く認められるようになったきっかけは、ロドウェイク・メイエルが匿名で『聖書の解釈者としての哲学』を1666年に出版したことであった。メイエルは聖書を解釈する基盤は聖書自体にあるという考えを批判し、聖書にある曖昧さを解消して、確かな解釈に至るためには理性(哲学)に依拠しなければならないと主張した。ここからメイエルは無からの創造の否定や、三位一体についての論争の無意味さの宣告といった帰結を引き出した。これはデカルトに代表される理性主義の帰結だとみなされた。

 『聖書の解釈者としての哲学』の出版をきっかけとして、従来はデカルト主義に好意的であった者たちも、対立する陣営に回ることになる。従来からデカルト主義を批判していたヴォエティウスやアンドレアス・エッセニウスは、自分たちの懸念がまさに現実化したとしいて、デカルト主義の神学への攻撃をさらに強めていった。

 コクツェーウス・デカルト主義の神学者の側では[デカルト主義とコクツェーウスの神学が正確にいってどういう理屈でセットにされていたのかは、私(坂本)にはまだくわからない]、『聖書の解釈者としての哲学』の著者と自分たちを区別する試みがなされるようになる。たとえば、ライデンのヘイダーヌスやコクツェーウスは『聖書の解釈者としての哲学』を断罪した。また、同書が67年にオランダ語訳された翌年には、ユトレヒトのヴォルツォーゲンによる批判が出版されることになる。ヴォルツォーゲンによると、聖書の解釈にあたって理性が決定打となるのは、以下の条件が満たされるときに限られる。第一に、哲学の側で結論が疑いの余地なく論証されている。第二に、問題となっている論点が、三位一体といったそもそも理性的な理解を受け付けない秘儀に該当していない。これらの条件を無視して、『聖書の解釈者としての哲学』は理性を聖書解釈の絶対的な基礎としているとして、ヴォルツォーゲンは批判したのだった。しかしこの立場もまた、理性に大きな役割を認めすぎており、ソッツィーニ主義に接近していると批判された。

 ヴォルツォーゲンに寄せられた批判にたいして、コクツェーウス・デカルト主義の神学者たちは弁護に回ることになる。コクツェーウス、ヘイダーヌス、ベッカー、ビュルマン、そしてウィティキウスらである。彼らは最終的に、1669年にヴォルツォーゲンが正統派から逸脱していない旨を宣言する文書に署名した。マレシウスもこの文書に署名している。しかし、『聖書の解釈者としての哲学』の出版以降、マレシウスはデカルト主義から距離をとり、その批判者になろうとしていた。この文書への署名が、かつての弟子であるウィティキウスと彼が連帯した最後の出来事となった。

予定と異端 木ノ脇「アルミニウスに対する異端宣告をめぐって」

 

  アルミニウスに関する基本的な情報を提供してくれる論文を読む。手際よくまとめられていて、私のような初学者には大変助かる。

 アルミニウスは、ウーデウォーターという、ユトレヒト近くの町に生まれた。彼の教育に携わっていたのは、なんと科学史でも有名なスネルである。設立されたばかりのライデン大学に入学したアルミニウスであったが、アムステルダム議会の決定によって、(帰国後にアムステルダムで牧師になるという条件の下で)ジュネーヴ大学で神学を学ぶことになる。ジュネーヴではベザのもとで学ぶとともに、バーゼルでも神学を修めた。

 帰国後アムステルダムで牧師をつとめるようになったアルミニウスにたいして、カルヴァン主義から逸脱した教えを説いているという指摘がなされるようになる。確かにアルミニウスは、カルヴァンを高く評価しながらも、その誤りを正す必要があると考えていた。このため、彼が1603年にライデン大学の神学教授に就任するにあたっては、ゴマルスらが強硬に反対したのだった。

 実際、教授就任にあたってアルミニウスが行った演説を検討すると、正統的な予定説とは相容れない考えを彼がもっていたことが分かる。アルミニウスによれば、救いのためには、恩寵と同時に人間の側の応答が不可欠である。これは、恩寵によって人間は抵抗する術もなく救われるという正統派の教えに反していた。

 アルミニウスの死後、オランダ国会はドルトレヒトで教会会議を開き、アルミニウスの教えを審議した。ゴマルスらが主導したこともあり、会議の末に決定された「ドルトレヒト教会会議規定」では、アルミニウスの教えは異端とされる。アルミニウスの教えを放棄しないものは破門された。

教養の導く先に、ダーウィンの番犬はいるのか 戸田山『教養の書』

 

教養の書 (単行本)

教養の書 (単行本)

  • 作者:戸田山 和久
  • 発売日: 2020/02/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 教養とはなにかを定義する第1部、そのような教養を身につけることを妨げるイドラにどう対処するかを解説する第2部、最後に教養を身につけるための実践的なアドバイスを提供する第3部からなっている。全体を通じて、多数の小説や映画が引かれ、現代の科学的な知見も随所で参照される。そういう箇所を読んでいると、引かれている小説や映画を見たくなってくる。それにより、教養とはなにかを語りながら、教養の習得へと読者を誘う書にもなっている。

 第3部の実践的アドバイスのなかでは、第21章「ライティングの秘訣」が特によいと感じた。仕事のなかでこそ文章を書かなければならないというライティングの必要性、相手と目的を意識して書かなければならないというライティングのデザイン性を説いたあとに、文章と文章をつなげるための具体的な手続きが書かれている。ライティングについて短くまとまったものとして、広く勧められる。

 さらに特筆すべき点として、科学史を学ぶ重要性が書かれていることがある。科学史を学ぶと、科学の発展は時間をかけて徐々に進むもので、しかもその発展は共同作業によってなされていることが分かる。こうして、一人の天才科学者が世にはびこる迷妄を打ち砕いたという英雄史観を回避できるという。

 これはまったくその通りだと思う。しかし、著者による科学史の記述の本体はかなり頼りないと感じた。たとえば、ハックスリーが「ダーウィンの番犬(ブルドック)」を自称していたとある(234ページ)。これは必ずしも間違いではない。しかし、この自称の資料的裏付けは、実はそれほど強固ではない。この点については、以下の記事に詳しい。

 この記事によると、まずハックスリー自身の書き物のなかで、自分のことをダーウィンの番犬と呼んでいる箇所はないという。ではこの自称はどこから来ているか。それは、ヘンリー・フェアフィールド・オズボーンの証言である。オズボーンは1895年の講義のなかで、1879年にハックスリーが「自分は常にダーウィンの番犬だった」と語ったと述べている。さらに1924年には、ハックスリーがしばしばダーウィンの番犬を自称していたと書き残している。

 オズボーンの証言は、彼の息子が編集し、1900年に出されたハックスリーの伝記に入り込んだ。そこでは、ハックスリーの言葉として「私はダーウィンの番犬である」(現在形になっている)が(資料的な典拠を示さずに)紹介されている。この伝記をもとに、ハックスリーは生前からダーウィンの番犬として知られていた、という決まり文句が形成されることになる。

 以上から少なくとも次のことが言える。まず、ハックスリーが生前からダーウィンの番犬と呼ばれていたということはない。それは、1895年のオズボーンの証言ではじめて現れる。しかも、その証言は1879年の会話の回想である。しかも、オズボーンの証言は、ハックスリーが1879年に一度だけ「自分はダーウィンの番犬だった」と言ったのか、それともしばしばそう言っていたのかについて、一定しない。このように、番犬発言は取り扱いに注意が必要である。そのような発言を、留保なく使うのは避けるべきだろう。もう少し一般化すると、このようなクリーシェを見たとき、これは本当に資料上の根拠があるのだろうか、と一度立ち止まれるようになることが、歴史学を学ぶ意義の一つではないかと思う。

 このような意味での歴史を学ぶ効用が本書で発揮されていないのは、当然なのかもしれない。本書の第16章「歴史的センスの磨き方」では、「史料の読み方とか」についてのアドバイスは、「歴史学科の学生さん向け」のものとしていったん脇に置かれている。そのかわりに著者が勧めているのが、グローバル・ヒストリーである。このような考え方は、歴史学者のうちでも支持がある。たとえば、川北稔「リアルなものを求めて:日本西洋史学の道」は、日本で求められる西洋史として、恐らくはウォーラーステインを念頭において、近代のグローバルな経済史を挙げているように見える(参照)。これにたいして、歴史学の核心は史料批判にあるというような、マルク・ブロックのような見解もある(参照)。このような問題についてしっかりと議論する準備には私にはない。けれど、教養としての歴史学は、グローバルヒストリーに限られるとは必ずしもいえない、までは言っておきたい。

 なお、番犬発言の紹介のあとに、種の「固定説が成り立つ前は、生物は種の垣根を超えて勝手にどんどん変わりうるという考え方(transmutationism)のほうが常識」であり、そこでは、「雑種も変態も進化も自然発生もごたまぜ。無秩序」(234ページ)と書かれている。これも、私には少なく見積もっても相当誤解を招く記述に思えた。たとえば、私が研究しているユリウス・カエサル・スカリゲルは、ここで例として挙げられている「ラクダとヒョウが掛け合わさってキリンになるとか、木の実が水に落ちるとフジツボに」なるとかいった事例を、「無秩序」であるとは考えていなかった。少なくとも後者のような例については、なんとか種の変化を認めずに説明しようと苦慮していた。その説明の仕方や、その歴史的な意義については、私の著作の第6章と、結論部を参照されたい。この箇所の記述、特に「無秩序」とまでいってしまうところは、論述を面白くしようとする著者のサービス精神が、悪い結果を招いている。