今日の記事は、オスト・ヘッコム(ost_heckom)さんによる▼りんごの皮やチョウやトンボが子どもに正義感や道徳観をもたらす - blog::青年の発達と未来を考えるという記事に触発されて書いたものです。
オスト・ヘッコムさんによる記事を読むと、ゆとり教育を推進する立場の人たちが、家庭や地域での体験の重要性を強調していたことがよく分かります。
私はゆとり教育についてはまったく知らなかったので、このことを知ったとき意外に思いました。というのも、家庭や地域での体験を重視するのは、規範意識の涵養を強調する教育再生会議の路線に親和的なもので、ゆとり教育とは相容れないものと考えていたからです。
しかし、実際に少し調べてみると、このような私の思い込みはまったく根拠のないものであることが明らかとなりました。なぜなら、ゆとり教育という理念の中では、家庭や地域での体験に重要な位置づけが与えられていたからです。
つまり、ゆとり教育が目指す教育像においても、教育再生会議が目指す教育像においても、家庭や地域での体験は重要な位置を占めているということになります。
しかし同時に、教育再生会議の大きな目標の一つが、ゆとり教育の見直しであることも事実です。では、目指すべき教育像が変わったにもかかわらず、同じように家庭や地域での体験が重視されているのはなぜなのか。これは教育をめぐる議論の中で、体験教育がどのようなものとして考えられていることのあらわれなのか。
今日の記事ではこのような点について、ゆとり教育が目指す教育像と教育再生会議が目指す教育像を、それぞれ体験との関係に焦点を当てて検討することを通して考えてみたいと思います。
用いる資料は以下の2つです。ゆとり教育については、第15期中央教育審議会第一次答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」(1996年)の内容によって、その教育像を代表させることにします。また、教育再生会議については今年の1月に出された第一次報告を用いることにします。
生きる力、ゆとり、体験:96年の答申から
96年に出された答申によれば、これからの教育に必要なことは、子供の生きる力を育てていくことです。この生きる力は次のように定義されています。
このように考えるとき、我々はこれからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。
我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を[生きる力]と称することとしこれらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた。
この生きる力をはぐくむという目標を達成するために、ゆとり教育は導入されました。ゆとり教育とは、具体策としては週休5日制などを導入することによって、児童生徒にゆとりを与えることを目指す教育です。このようなゆとりが与えられなければならないと考えられたのは、生きる力を身に付けるためにはゆとりが必要だと判断されたからです。「我々は、[生きる力]をはぐくんでいくために、(中略)子供たちにも、学校にも、家庭や地域社会を含めた社会全体にも[ゆとり]が重要であると考える」。
しかし、どうしてゆとりを与えることが、生きる力をはぐくむことにつながると考えられたのでしょうか。ゆとりと生きる力の結びつきは、少なくとも直感的に理解できるものではありません。
ゆとりと生きる力のつながりは、おおよそ次のような論理によって支えられていました。すなわち、ゆとりをあたえられることによって、生徒児童が地域や家庭で過ごす時間が増える。その結果、生徒児童は地域や家庭において、豊富な生活体験、社会体験や自然体験を行うことになる。このような学校以外での生活、社会、自然体験を通じて、生徒児童に生きる力がはぐくまれる。
生きる力とゆとりを結びつける議論に特徴的なのは、生活体験や自然体験などの体験が強調されているという点です。以下の引用から分かるように、生徒児童に今以上に学校外での体験を与えなければならないという考えは、答申の中で一貫して主張されています。
また、テレビなどマスメディアとの接触にかなりの時間をとり、疑似体験や間接体験が多くなる一方で、生活体験・自然体験が著しく不足し、家事の時間も極端に少ないという状況がうかがえる。
[生きる力]は、単に学校だけで育成されるものでなく、学校・家庭・地域社会におけるバランスのとれた教育を通してはぐくまれる。特に、家庭や地域社会における豊富な生活体験、社会体験や自然体験は重要である。
子供たちに[ゆとり]を持たせることによって、はじめて子供たちは、自分を見つめ、自分で考え、また、家庭や地域社会で様々な生活体験や社会体験を豊富に積み重ねることが可能となるのである。
生きる力が重要であるという理念と、その理念の実現のための手段であるゆとり教育をつなぐ重要な要素として、家庭や地域での体験は位置づけられていたのでした。
規範意識と体験:教育再生会議の第一次報告から
教育再生会議が掲げる目標の一つに、「全ての子供に基礎学力と規範意識を身に付ける機会の保障〔保証〕」があります(5頁)。目標の一つとして、基礎学力習得の機会を保証することが挙げられていることの背後には、「いわゆる『ゆとり教育』と呼ばれる現在の初等中等教育において、国民に学力低下の不安が広がっています(7頁)」という現状認識があります。教育再生会議はゆとり教育を見直して、基礎学力習得を重んじる姿勢を打ち出しているのです*1。
96年の答申ではその必要性が主張されていたゆとり教育が、2007年の時点では見直しの対象となっています。また、子供にとって大切だと考えられていた生きる力についても、教育再生会議の報告書の中での言及はありません。2007年の報告書では、教育目標の転換が図られていることが分かります。
しかし、教育目標が転換しているとはいえ、96年の答申と2007年の報告書とのあいだで共有されている要素もあります。それは家庭や地域社会での体験が重要視されているという点です。教育再生会議の報告書が、このような体験を重視するのは、体験活動が規範意識の涵養に効果的だと考えているからです。
すでに述べたように、教育再生会議は子供が規範意識を身に付けることを重要視していました。これは「子供の規範意識は低下し、国際的に見ても、我が国の子供は自尊心が乏しいと言われています(11頁)」という現状認識の上に立てられた目標です。そして、規範意識を子供が身に付けるために、家庭、地域などが協力しあって、子供の体験や奉仕活動を推進していくことが提唱されています。
子供たちに決まりを守ることの意義や大切さを指導することは、本来、家庭や地域社会の役割です。家庭や地域がしっかりと責任を果たすことがまず重要です(11頁)。
子供たちが愛、友情、正義感、忍耐力、感謝、尊敬、礼儀、誠実さといった、道徳観を身に付け、豊かな感性を育むためには、我が国の伝統文化や習俗に接するとともに、子供の様々な興味・関心に応じて、芸術文化、スポーツ、奉仕・ボランティア活動などを通じて、豊かな情操、健やかな身体を育まねばなりません。そのため保護者と教育関係者だけではなく、地域、企業の連携・協力が何より大切です(12頁)。
都市と農山漁村の交流のための長期集団宿泊体験・「国内留学」、自然体験、奉仕活動、ボランティア体験、職業体験等の計画的・体系的推進と環境整備を図る。体験や奉仕活動、集団活動、スポーツなどにより、規律、奉仕の精神、社会のルール、相互扶助の大切さや達成感を学ぶ(12頁)。
家庭や地域での体験が、規範意識を身に付けるために不可欠なものであると考えられていることが分かります。
体験の神秘化、体験教育の提唱が果たす機能
96年の中教審答申も2007年の教育再生会議報告も、ともに家庭や地域での体験の大切さを強調しています。しかし、なぜ体験が重要なのかという理由づけの部分は異なったものになっています。
96年の中教審答申の場合、体験が重要なのは生きる力を身に付けるためでした。そして、生きる力を身に付けるための体験を確保するために子供と社会にゆとりが必要だと考えられていました。
一方、教育再生会議の場合、体験が必要なのは子供が規範意識を身に付けるためでした。なぜ規範意識を身に付けなければならないかというと、子供の規範意識が低下したからです。
ここから96年と2007年とで、体験という同じものが、異なった理由から推奨されていることを見て取ることができます。
ただ、生きる力の中にも、「自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心」といった要素があります。これは教育再生会議でなら規範意識や道徳心といった言葉で表現されそうなものです。また、96年答申の中にも子供の倫理観を問題視する箇所があります。
したがって、96年の答申と2007年の報告書の違いをより正確に表現すると次のようになると思います。すなわち、96年の答申でも2007年の報告書でも、規範意識(あるいはそれに類する何か)が問題視され、その涵養が体験と結び付けられていた。しかし、96年の答申では、規範意識の問題はあくまで子供の自発性を重んじる生きる力という考えの中に含まれていた。一方、2007年の報告書では生きる力という理念はなくなり、また子供の自発性を重んじる文言もなくなっている。代わって規範意識がそれ単独で前面に押し出されるようになった。
このような事態について、以下で私の考えを述べます。
教育を語るとき、規範意識や感受性を涵養するための手段として、体験が呼び出されます。これはゆとり教育を推進する96年答申でも、ゆとり教育の見直しを唱える2007年の報告書でも同じです。この点については、オスト・ヘッコムさんによる「『体験』の神秘化に基づく『体験教育』の万能化」という表現が言いえて妙だと思います*2。
今以上に規範意識の涵養が行われなければならないのはどうしてなのか。また、規範意識は体験によって涵養されるのか。このような重要な前提の正当性を確認することなく、無前提に体験の必要性が主張されています。この10年のあいだに目指すべき教育像が変わっているにもかかわらず、この点に変化がないことからも、体験の神秘化が根深いものであることが分かります。
もう一つは、教育の目標が変わっているにもかかわらず体験が同じように強調されていることの問題点です。96年の答申では、家庭や地域での体験は、子供が生きる力を身に付けるために必要であると考えられていました。そしてそのような体験の時間を確保するために、週休5日制をはじめとするゆとり教育が推進されていました。一方、教育再生会議は地域や家庭での体験をゆとりや生きる力からは切り離し、もっぱら規範意識の涵養のために必要なものであると考えています。
これを見ていると、私には各審議会や会議が目指すべき教育像を実現するための手段として、内実や有効性とは無関係に家庭や地域での体験を都合よく呼び出してきているように思えてきます。実際に体験というものがどのようなものであり、どのような効果を持つのか。あるいは体験を子供に経験させるための社会的基盤はあるのか。このような問いを素通りして、各論者が勝手に体験によって実現されるべきものを想定し、体験の必要性を文書に書き込んでいるのではないでしょうか。
では、目指すべき教育像の変化にも関わらず体験が重要視される原因は何でしょうか。それはおそらく子供がかかわりを持つ環境というものが、学校、家庭、地域に限定されているからだと思います。外部からの働きかけによって子供に何らかの変化を与えようとすれば、学校、家庭、地域社会のいずれかの場所で働きかけが行われるほかありません。これは目指すべき教育像がどのようなものであるかとは関係のないことです。また、学校が主に知識を習得する場であるのに対して、家庭や地域は学校での知識習得に還元できない何か、つまり「多様な体験」が行われる場であるという前提が共有されていることも重要だと思います。
ここから、新たな教育像が提唱されると、その教育像の内容とは関係なく、家庭や地域での体験が重要な要素として呼び出されることになります。しかし、繰り返しになりますが、その体験が本当に求められている機能を果たすのかどうかは不透明なままです。
あえて極言するならば、地域や家庭での体験というものには内実はないのだと思います。というか内実がないことこそが重要なのです。学校教育では伝えられないけれども子供が身に付けるべきものがあるはずだ。このような問題意識を持つ提言者たちにとって、家庭や地域での体験教育を呼び出すことは、何か有益なことを提唱したと思いなすための方策として機能しているのではないでしょうか。
したがって、いつか教育再生会議の路線が批判される日が来たとしても、やはり家庭や地域での体験は、またその有効性とは無関係に強調されることになると私は考えます。