フランシス・ベイコンの「死の哲学」 柴田「ベイコンの初期手稿にみる生と死の概念」

  • 柴田和宏「フランシス・ベイコンの初期手稿にみる生と死の概念」ヒロ・ヒライ、小澤実編『知のミクロコスモス 中世・ルネサンスのインテレクチュアル・ヒストリー』中央公論新社、2014年、305–329ページ。

 ルネ・デカルトはつねにその革新的な方法論と、それを支える思想体系の両面から検討されてきた。それにたいしてフランシス・ベイコンは新たな学問方法論の唱道者としてのみとらえられることが多い。その具体的な哲学的見解はしばしば触れられないままだ。じっさい帰納法や協働作業にもとづく学問の進展を唱えたという以上にベイコンの思想内容を知っている人がどれほどいるだろうか。本論文は手稿のかたちで残された『死の道について』という著作を分析することから、ベイコンがいかなる理論的基盤のうえにたって寿命の延長を達成しようとしたかをあきらかにするものである。彼の学問プログラムとその具体的哲学学説がきわめて密接に結びついていることをしめした傑作である。

 なるべく長く生きる。この願望は衛生環境が整い、医療技術が発達した現代でも失われていない。それらの条件がそろう以前、いともたやすく人間が命を落とすような時代にあっては、寿命の延長はいまよりもいっそう切実な願いであった。この願いは哲学の歴史にも反映されている。17世紀の哲学者たちは、自分たちの哲学は旧来の哲学よりも優れた新しいものだと主張した。だがその新しいものが古いものより優れているとなぜいえるのか。いかなる目標を達成すれば、新しい哲学の価値は揺るぎないものとなるのが。そこで選ばれたのが寿命の延長であった。デカルトもベイコンも自分たちの哲学は寿命の延長に寄与すると述べている。

 ベイコンが寿命の延長の方策を論じた著作の表題は『死への道について』であった。なぜ長く生きるための処方箋が死についての著作に?ここにこの問題にたいするベーコンのアプローチの特徴があらわれている。寿命の延長とは死の過程をくいとめることによって達成される。したがって私たちはまず生物がいかにして死にいたるか(死への道)を理解せねばならないというわけだ。ここからベイコンは著者がいうところの「死の自然哲学」を構想することになる。

 ベイコンによれば生物の死とは無生物の分解と類比的に理解できる。無生物が分解の大きな要因は、その内部にある希薄で精妙な物質であるところの精気が、希薄でない濃密な部分を希薄化し、そうやって希薄化した部分とともに散逸してしまうことから生じる。生物の場合、生物内部の精気が精気の再生を可能にする特定の部位を、これら希薄化や散逸のプロセスによって破壊してしまうことから、分解、すなわち死がもたらされる。よってこのような精気の活動を抑えるような方策をとらねばならない。どうすればよいか。そのヒントはやはり無生物にある。火の熱にかけた磁気やガラスのようなものが長持ちするのは、火の作用によって内部の精気の分布が均等となっているからである。だから同じように人間の体でも精気の分布を均等にせねばならない。もちろん人間を火にかけることはできない。代わりにマッサージをしたり食事を簡素にしたりすることで、精気の分布は達成される。またワインは樽に密閉するとより長く保存される。これは精気が内部に閉じ込められるからだ。同じことを人間で達成するにはどうすればよいだろうか。体に染料を塗ればいいのだ。古代の人々や現在の新大陸の人々がボディ・ペインティングにより長寿を達成していることがこれを証明している(!)。

 以上のようなベイコンの死の哲学の特徴は、生物に関する思考がつねに無生物との類比によって導かれていることである。これは彼の生命に関する基本理解に根ざしたものであった。彼は生命をなるべく物質の作用から理解しようとしていた。物質であり、無生物のうちにも存在するような精気の働きから生命現象は説明される。非物質的な霊魂は(ほぼ)呼びだされない。生命が物質的な働きであるからこそ、人間の手によって操作可能となる。よって寿命の延長の可能性がひらかれる。対照的に生命原理を不可知の霊魂に還元してしまう旧来の哲学は、生命現象に人間の操作が介入する余地を残さない。そこでは哲学により人間の幸せが達成される可能性は閉ざされている。そのような哲学にはもはや価値はない。

 ここから分かるように、ベイコンの構想する死の哲学はその響きとは裏腹に、人間の手によって死のプロセスをつかさどることで、より長き生の享受を達成し、ひいては人類に幸福をもたらそうとするものであった。それは人間の幸福を増大させる哲学をうちたてるという彼の「大革新 the Great Instauration」のプログラムの中核に位置していたのである。

 だが自然を操作し、死をも操作しようという欲望を人間が徹底的に追求することははたしてほんとうにその幸福につながるのか。この問題意識にいたることで本論文は同じく『知のミクロコスモス』におさめられた加藤喜之「スキャンダラスな神の概念 スピノザ哲学とネーデルラント神学者たち」におけるスピノザ批判の分析に接続されることとなる。

図像出典

Wellcome Imagesより(L0031531)