死者の研究と生者の研究 マルク・ブロックにおける歴史の対象

新版 歴史のための弁明 ― 歴史家の仕事

新版 歴史のための弁明 ― 歴史家の仕事

  • マルク・ブロック『新版 歴史のための弁明 歴史家の仕事』松村剛訳、岩波書店、2004年、ix–xxiv, 1–29ページ。

 マルク・ブロックの著名な著作から序文と第1章を読みました。「パパ、だから歴史が何の役に立つのか説明してよ」。ある少年から父親である歴史家に向けられたこの問いに対して歴史家は釈明せねばなりません。西欧文明がとりわけ歴史に多くを求めてきた文明であり、かつ現時点(フランスがドイツに占領されていた時期)で苦悩を伴う歴史への反省が行われている以上はなおさらです。

 歴史が役に立つとはどういうことでしょうか。まず歴史は気晴らしとなるように思えます。特に離れた時代や地域についての歴史は珍奇さという魅力を持つものです。しかしこれだけでは歴史に費やされる膨大な知的努力を正当化しえないでしょう。歴史が努力を傾けるに値するのは、それが事実の単純な列挙ではなく、それらの間に説明的な関係を打ち立てられるからです。だがそれにしても、まずもって歴史が価値あるのならば、それは私たちがよりよく生きるための助けとならないといけないのではないでしょうか。

 以上の問いに対して歴史を「知性の化学が作製した最も危険な産物」として断罪する者も現れました(ヴァレリー)。しかし歴史に携わっておらず歴史家の営みを理解していない中傷者と歩みを共にするよりも、歴史の価値について判断する前に、歴史家の実践とはどのようなもので、歴史家はそれをなぜ行うのかを知らねばなりません。この課題は歴史学がまた分析の企てとしては幼い学問であるがゆえに困難です。しかし未完成であるからこその魅力が歴史学にはあるのです。

 歴史学とは時間の中における人間たちについての学問です。それは常に持続し、しかし変化していく時間のなかで人間たちをとらえようとします。しかしここにしばしば誤りが入り込みました。起源を確定することで歴史の説明とする過ちです。ドイツ・ロマン主義から受け継いだ起源趣味と、宗教分析における起源の問題の重要性があいまって、初期の現象に多大な重要性が付与されました。しかし起源がたとえ確定されたとしても、その後のある歴史現象は、それが起きている瞬間を研究することなしには説明できません。「系譜を説明と混同する誤り」を犯してはならないのです。

 これとは逆に、現代と過去とを切り離して、現代を理解するには現代だけを参照すればよいと考える者も現れました。この比較的最近現れた観念は、いくつかの誤った仮定の上に立てられています。たとえば何らかの歴史的事象の効果の大小は、時間的な距離によって測られるものではありません。しかも現代を規定することをやめたように思われる事柄ですら、現代の理解に貢献することができます。それらの物事と類似した現象を現代に見出し過去と比較することにより、現代だけ見ていては気がつかないような人間の性質や社会の基礎についての知見を得ることができます。「ただひとつの経験には、それ自体の諸要因を区別する、したがってそれ自体の解釈を提示する力は、いつもないのである」(25ページ)。

 このように時間の流れの中でのつながりが強いことは、過去を理解するためには現在について知らねばならないことも教えてくれます。

なぜなら、人間の生の微動(古い文献にそれをとりもどさせるには実に大変な想像力の努力が必要になるだろう)が[ここでは]われわれの五感で直接に感じとれるからである。私は戦争と戦闘の叙述を何度も読んできたし、何度も語ったことがある。だが、私自身でそのおぞましい嘔吐を感じるまで、軍隊にとって包囲がいかなるものか、民族にとって敗北がいかなるものか、知るという動詞の十全な意味で私は本当に知っていたのであろうか。内側からそれを知っていたであろうか。[中略]実のところ、意識的であれ無意識的であれ、過去を再構成するのに役立つ諸要素をわれわれが最終的に借りてくるのは、必要なところで新たな色調をそれに加えるにせよ、常にわれわれの日常の経験からなのである。(26ページ)

 よって歴史という「時間の中における人間たちの学問」は、「常に死者の研究を生者の研究と結びつける必要がある」(28ページ)。