啓蒙について:カント 「『啓蒙とは何か?』という問いへの答え」

 イマヌエル・カント(1724-1804)の「『啓蒙とは何か?』という問いへの答え」(1784)は以下のように始まります。

 啓蒙とは人間が自ら招いた未成年状態から抜け出ることである未成年状態とは、他人の指導なしには自分の悟性を用いる能力がないことである。

 この未成年状態の原因が悟性の欠如にではなく、他人の指導がなくとも自分の悟性を用いる決意と勇気の欠如にあるなら、未成年状態の責任は本人にある

 したがって啓蒙の標語は「あえて賢くあれ!」「自分自身の悟性を用いる勇気を持て!」である。
(中略)
 なぜ彼ら〔多くの人間〕は生涯をとおして未成年状態でいたいと思い、またなぜ他人が彼らの後見人を気取りやすいのか。

 怠惰と臆病こそがその原因である。未成年状態でいるのはそれほど気楽なことだ。

(福田喜一郎訳、『カント全集 14』、岩波書店、2000年、25頁。強調原文。)

 啓蒙という概念について述べられた文章としては最も有名なものなので、読んだことのある方も多いかと思います。別の著作の中でカントは、この啓蒙の定義について次のように言い換えています。

 自分で考えるとは、真理の最高の試金石を自分自身の中(つまり自分自身の理性の中)に求めることである。そして、いつでも自分で考えるべきだという格率は、啓蒙のことである。

 ものごとを自分で考えるのを避けて、他人に考えてもらい、行動するときには他人の指導に従うことは人間にとって楽な生き方です。しかし、このような負担の少ない状態を脱して、あえて賢くあろうとする、すなわち、あえて自分で考えるようにすることが、カントの考える啓蒙ということになります。

 ではこのような啓蒙はどのようにして実現されるべきなのか。カントによれば、「こうした啓蒙を実現するために要求されるのは自由以外の何ものでもない(27頁)」。カントがここで述べている自由とは、人間が自分の持つ理性を公的に使用する自由のことです。理性を公的に使用する自由という考えには、当然のことながら、その対として理性を私的に使用する自由という考えが存在します。ではカントは理性の公的使用と、理性の私的使用ということで、それぞれ何を指していたのか。

 カントによれば、理性を私的に使用するとは、「ある委託された市民としての地位もしくは官職において、自分に許される理性使用のことである(27頁)」。具体的には、たとえば軍務に服しているときや、納税義務を履行するときや、聖職者としての勤めを果たすときに、各人が自分自身の理性を使用するのは、理性の私的使用とみなされることになります。

 もし、上官に何かを命令された将校が、軍務についていながらその命令の合目的性または有用性について声を出して議論しようと欲したならば、それは組織を大変堕落させることになるだろう。彼は命令に従わなくてはならないのである(28頁)。

 つまり、ある人が自らに課せられた責務を果たす際に、その責務を果たすことが正しいかどうかについて自分自身で判断しようとするならば、これは理性を私的に使用していることになります。そして、カントによれば「その〔=理性〕の私的使用はしばしば極端に制限されることがあってもかまわない(27頁)」。

 一方、理性を公的に使用するとは、「ある人が読者世界全公衆を前にして学者として(als Gelehrter)理性を使用すること(27頁)」であるとカントは解釈します。先ほどの軍務の例に即して、カントは次のように述べます。

 しかし、彼が軍務における失策を学者として批評し、この批評についての判定を自分の公衆に求めるのは、当然のことながら禁じられてはならない(28頁)。

 これと同じように、学者として課税が不適当であるという考えを公にすることや、聖職者が学者として宗教の教えや教会制度について自分の考えを公にすることも認められなくてはなりません。また、カントはこのような立場で意見を述べることを、「世界市民社会の成員」として議論することだとも述べています。

 理性の私的使用と公的使用に関するカントの議論を整理すると以下のようになるかと思います。

立場 制限は許されるか
理性の私的使用 市民としての地位、もしくは官職 許される
理性の公的使用 学者、世界市民社会の成員 許されない

 以上を大雑把にまとめると以下のようになるでしょうか。各人は市民として課せられた義務や責務を忠実に果たさなければならない。これを果たさずに批判的な議論を行うことは理性の私的な使用に当たる。そして、理性を私的に用いる自由が制限されるのはやむをえないことである。

 一方で各人は世界市民社会の成員として、自由に考えを公表し、議論を行わなくてはならない。これは理性の公的な使用に当たる。このような理性の公的使用の自由は守られなくてはならない。また、世界市民社会の成員として議論を行うときには、他人の指導に従うのではなく、自分で考えて判断を下さなくてはならない。

 そしてカントは、このような条件が満たされることによって、「自由があっても公共体の公安や統一を気遣う必要は少しもない(32頁)」という事態が生まれると考えました。安定した秩序のもとで自由な議論が行われることで、宗教体制や法制度がより優れたもへと発展していく。カントが人間本性の根本使命だと考えた啓蒙の進展とは、このような事態を指しているのではないかと思います。

 ところで、批評家の柄谷行人氏が、カントのこの論文を取り上げています。柄谷氏は『倫理21』という著作中の「『私的』なものと『公的』なもののカント的転倒」という一節で、以下のように書いています。

 カントの〔私的、公的をめぐる〕この主張には、それ以前あるいは今日の通念からみて、大きな転倒があります。通常、公的とされるのは国家的レベルの事柄です。しかるに、カントはそれを私的なものといい、逆にそこから離れて個人として考えることを公的だというわけですから。カントは、そのような個人を世界市民コスモポリタン)と呼びました。(柄谷行人、『倫理21』、平凡社ライブラリー、2003年、91頁。)

 ここでの柄谷氏の理解は以下のようにまとめることができます。

私的な事柄 公的な事柄
通常の考え方 個人として考えること 公的立場から考えること
カントの考え方 公的立場から考えること 個人として考えること

 しかしカントの文章をよく読んでみると、国家的レベルの事柄は私的であり、世界市民的に考えることが公的であるとは書かれていません。カントが書いているのは、国家的レベルの事柄について、国家的レベルの地位についている者として理性を用いることは理性の私的使用に当たる。一方、世界市民の立場から理性を用いることは理性の公的使用に当たる、ということにとどまります。

 私は上で引用した柄谷氏の文章を最初に読んだとき、なるほどと思った記憶があります。しかし、少なくともカントの読解としては問題含みであるようです。しかも、カントの文章に実際に当たってみると、柄谷氏の読解はカントの思想の前提とも抵触する気がしてきます。とはいえ、これ以上のことはまだよく分からないので、ここに書くのは控えることにします。

 なんだかまとまりを欠く文章ですがとりあえずここまで。

カント全集〈14〉歴史哲学論集

カント全集〈14〉歴史哲学論集

永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)

永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)

倫理21 (平凡社ライブラリー)

倫理21 (平凡社ライブラリー)

〔おまけ〕
 ところでカントが生きていた18世紀末のドイツでは、啓蒙とは何かという問いに答えるための論考が大量に出されていました。

著者名 著書名 出版年
M. メンデルスゾーン 『「啓蒙とは何か?」という問いについて Über die Frage: Was heißt aufkären?』 1784
I.カント 『「啓蒙とは何か?」という問いに対する解答 Beantwortung der Frage: Was ist Aufklärung?』 1784
K. L. ラインホールト 『啓蒙についての思考 Gedanken über Aufklärung』 1784
G. N. フィッシャー 『啓蒙とは何か Was ist Aufklärung』 1788
K. F. バールト 『啓蒙と啓蒙の推進方法について Über Aufklärung und die Beförderungsmittel derselben』 1789
E. シュナイダー 『真の啓蒙 Die wahre Aufkärung』 1790

 多すぎ。