この3年くらいずっと斜塔堂さんに読んでもらいたかった論文を今日になってようやく送ることができました。その論文とは次のものです。
本論文の第3章は
- K. Yanagisawa, "The 'Parentage' Topos: Horace, Odes 2.13.1-12 and Ovid, Amores 1.12", Museum Helveticum 57 (2000): 270-274
として出版されています。
柳澤氏はこの論文の中でホラティウス、オウィディウス、ウェルギリウス、エウリピデスの作品中に現れる特定の箇所を「文学史上のある領域に遍在する類型に注目し、そのパラレリズムを注釈のために利用する」という方法を用いて検証していきます。
これだけでは何のことか分からないと思います。でもとにかく議論の中身は非常に優れています。私はこれほど面白く、また勉強になる論文を西洋古典学の領域で読んだことがありません。といっても、私が読んだ文献などたかだか知れてはいるのですが。今となってはこの修士論文を入手するのは難しいのですけど、東京大学の西洋古典研究室に行けば紀要として出されたものをもらうことができるはずです(たぶん)。
斜塔堂さんに読んでいただきたかったのはこの論文の補遺の部分です。ここで柳澤氏は次のようなことを試みます。
この補遺において私たちがなそうとするのは、古代における多くの弁論術書の著者たちによって、topos, koinos topos, locus, locus communisなど、お互い極めて類似した名称で呼ばれる一連の概念が担っていた意味を明確に整理して提示し、それを踏まえた上で現代(E.R. Curtius以降)の文学研究における「トポス(topos)」という言葉の使い方の正しさを検証することである。
ここでの書き方からも分かるように、柳澤氏によれば、現代の文学研究でのトポスという言葉の用いられ方は、少なくとも古代弁論術の観点からは誤った用法であるということになります。トポスという言葉を広めたクルティウスは古代弁論術からこの言葉を選び出したことが明らかであるにも関わらず。このような誤った用法が用法が流通している現状に対して、柳澤氏はアリストテレス、キケロ、メナンドロス・レートールなどの分析をもって問題提起を行うわけです。
誤解に基づく理解の中でも特にまずいのは、commonplaceという単語が常套句を意味することから、ラテン語のlocus communisまで常套句を意味すると考える人がいることです(もちろんlocus communisは常套句を意味しない)。ロイド‐ジョーンズのような大物学者までこの種の過ちを犯していることは、いかにトポスやロクスをめぐる混乱が根深いかをうかがわせます。
というわけで初期近代のcommonplace bookに関心を寄せる斜塔堂さんにはぜひこの補遺の部分を読んでもらい、トポスやロクスという言葉の出発点を把握してもらおうと思ったわけです。斜塔堂さんといえども、ヘルマゴラース、テオーン、メナンドロス・レートルにまで目を配ってトポス、ロクスの歴史を検証したことはないはずなので。
ところで斜塔堂さんにお送りする際にあらためてこの論文を読み直してみたのですけど、やはり見事の一言に尽きます。