これは面白そうな試みです。「類」に「群れ」という訳語をあてることには問題があると思いますけど。今度韓国から来る知り合いに一冊買ってきてもらおうかな。
日本でも長谷川宏氏がヘーゲルの著作を訳す際に行ったことを誰かがアリストテレスの著作を訳す際にも行うということはないのでしょうか。これはどういうことかというと、
1. 訳語の一対一対応は行わない。
2. 日本語として意味が通すために訳者からの補いを大量に行う
という2つの原則に従ったアリストテレスの訳書の刊行することです。
アリストテレスが用いる術語には造語が多いです。また以前から使われていた単語であっても、アリストテレスの哲学体系の中に位置づけられることで意味が変わってきています。きっと当時のギリシア人から見てもあの人のギリシア語は異様なものだったはず。
また現在アリストテレス著作集として流通しているものは彼の講義ノートをもとにしたものです。公刊のために準備されたものではありません。そのため省略が多く文体も多くの場合こなれていません。場所によっては殴り書きのようなところもあります。
以上のことを考えるならば、現在の日本語訳はアリストテレスの文章が持つ異様さと堅苦しさをよく伝えているとは思います。もちろん
という意見もあります。しかしここで言われている再考と改訂というのは、あくまでアリストテレスの哲学に独特の術語をどのように日本語に置き換えるかという話です。
このような専門家向けの改訂とは別に、非専門家向けに徹底的に噛み砕いたアリストテレスの訳があってもいいと思うのですよね。ただ失敗すると目も当てられない訳になりそう。