『ミクロコスモス』書評第一弾

 昨日発売された『ミクロコスモス』への書評第一弾がはやくも現われました。

 『ミクロコスモス』を読んでいて誰もが感じるであろう点が見事に指摘されています。

本論集は、個別論文の単なる寄席集めではない。いずれの論考も、個人の思想(ミクロコスモス)を読み解くことで、その個人が置かれた時代の世界像(マクロコスモス)にまで踏み込んでいる。そのような点において、すべての論文は相互連関性を持ち、論集そのものにひとつの統一性―多様性の中の統一―を与えている。

 そう、そうなのです。この雑誌は単にさまざまな事例が集められた論文集ではありません。

 たとえば、冒頭の菊地原論文から、章をまたいで平岡論文へと読み進めてみてはどうでしょうか。扱われているのはパラケルススコペルニクスという人物だちです。一人は宗教的な色合いの濃い医学理論を提唱した人物、もう一人は人類の知の転換点となった天文学理論を提出した人物として知られています。前者の医学理論や世界観は現代的にはナンセンスであり、後者がとなえた太陽中心説は人類の偉大な知的遺産として広く認知されています。これほど異なる二人を並べることができるでしょうか?

 しかし、両者は同時代人でした。それだけでなく共に医者でした。ならば両者の思想のバックグラウンドに何か共通するものがあるのでは?

 このような疑問に答えるためには『ミクロコスモス』が採用する精神史のアプローチを取るしかありません。すなわち、人間の高次な精神活動と関連する領域を、その活動が生み出された時代状況と照らし合せながら解読していくのです。

 その結果生まれた菊地原論文と平岡論文を読むならば、読者はそこに彼らがまぎれもなく互いによって共有された知的土壌から生まれてきていたこと、しかし同時にその土壌から彼ら自身の関心に彩られた異なる理論を育て上げていたことをみてとるでしょう。

 それぞれの論考というミクロコスモスが、論集というマクロコスモスをなし、それが実は当時の知的土壌なるマクロコスモスの『ミクロコスモス』となっている。ここにこそこの新雑誌の真価があるのです。