世界変革への抵抗 加藤「スキャンダラスな神の概念」

 エウレカとはアルキメデスが浮力の原理を発見したときに叫んだと伝えられる言葉である。この叫びにはいまや自分が世界の秘密を理解したという歓喜がこめられている。同種の歓喜は哲学・神学の歴史のうちで繰り返されることとなった。11世紀から12世紀の神学者たちの書き物は、神にまつわることがらを信じるだけでなく、論理によって理解できるようになったことへの喜びにあふれている。神の存在を論理的に証明し、その様々な属性を理性的に考究できることからくる興奮だ。たとえばアベラールの著作には彼の怯むことない探究の軌跡が記録されている。だが浮力の原理ならいざしらず、ほんとうに神を理性によって理解しつくしてしまっていいのだろうか。それは教会の必要性の否定ではないか。理性によって知ることができない領域があり、それについては神の啓示に頼らねばならず、啓示が記された聖なる書物を解釈する権利は教会が独占していた。教会を一つの中心とする社会秩序が安定するためには、理性に限界が課されねばならない。アベラールが強い抵抗を受けたのは当然であった。

 神にまつわるエウレカは16世紀の終わりごろより、再び声高に叫ばれるようになる。いやむしろそこで叫ばれたのは世界にまつわるエウレカであった。世界は理性によって完全に理解可能である。この主張を正当化するために初期近代の思想家たちは神に手をのばした。世界の成立根拠たる神についての理解を変更することを通じて、世界の理解可能性を確保しようとしたのだ。その試みはきわめてラディカルな神の概念を生みだした。ガリレオ・ガリレイによれば、神は数学の言語をもって世界を創造した。よって世界は数学的に理解可能である。逆にもし数学的に記述できないものが世界にあるように思われたら、それらのものは世界を構成していないとみなすべきだ。それは私たち人間が生みだした観念にすぎない。ガリレオは自らの数学的自然学を正当化するために、神の概念を読みかえ、それにより世界のあり方自体を変革しようとした。

 ルネ・デカルトスピノザも世界が数学的に理解可能であることを担保するために、神について省察をめぐらせた。ガリレオよりもはるかに体系的に思考した彼らがたどりついたのはしかし神を世界と同一視しかねない思想であった。デカルトの思想にはそのような解釈を誘発する要素があり、スピノザの場合はよりはっきりと自然即神の思想を提示していた。だがもし自然を探求することが神を探求することと同一であり、かつ自然が理性によってあますところなく理解できるとするならば、世界のうちに人間が理解できない領域はまったく残らなくなってしまう。これはやはり教会の否定ではないか。実際スピノザはその著作のうちでラディカルな宗教批判を行っており、これが政治的急進派にその理論的基礎を与えていた。

 本論文が注目するのは、このような神概念の変革に抵抗したネーデルラント神学者たちである。一人はデカルト主義の立場からスピノザを批判し、もう一人はアリストテレス主義の立場からデカルトスピノザの両者を批判していた。その詳細な分析は論考にゆずるとして、彼ら批判者たちは一つの論点を共有していた。それは神を世界の外部におき、それにより人間理性に理解不能な領域を確保するというものであった。神を世界のうちにとりこみ、理性の限界を外さんとする傲慢でスキャンダラスな神の概念に彼らは抵抗したのだ。

 だが彼らはアベラールへの抵抗者ほどにも成功しなかったかもしれない。ガリレオデカルトスピノザの追従者たちが手にしていたのは、アベラールの論理学ではなくあらたな数学であった。これがもたらすエウレカの可能性と、そこからくる世界の操作可能性の強大さは、超越神の観念を古臭いものとしていく。だが、と著者は問う。ほんとうにネーデルラント神学者たちを忘れ去っていいのだろうか。世界をあますところなく理解できるという傲慢が歯止めを失ったとき大きな災厄がもたらされたのではないのか。なるほど一理ある。しかし著者の論考はさらなる反論をあらかじめ用意している。古くはルクレティウスが、初期近代においてはホッブズが問うたものだ。すなわち、理性を超えた超越神は、それへの排他的アクセス権をにぎると僭称するものたちによる支配のための道具の別名ではないか。ほんとうに傲慢でスキャンダラスなのはどちらなのか。扱う時代の点で『知のミクロコスモス』の結びに位置する本論が最後に読者につきつけるのは、やがて近代が抱えこむことになる困難であった。