混沌状況の活写は可能か?

「哲学的見解が混沌とした議論の状況から浮上する現場」を押さえたい場合、論文作成技術が未熟な自分の場合だと、対象の混沌さが、そのまま自分の論文の混沌さに繋がってしまう(後略)。

http://twitter.com/adamtakahashi/status/12117793603

(前略)多くの場合「現場」では「混沌とした議論」がなされているが、それが論文になると論点がクリアに整理されてしまい、もともとの混沌とした状況を活写していないような印象を受ける。(後略)

http://twitter.com/adamtakahashi/status/12118523684

 ここでアダムさんが言っていることを私なりに言い換えると、対象となる著作で行われている混沌とした議論をそのまま論文で再現しようとすると、論文自体の議論が混沌としたものとなって他人が読めるものではなくなってしまう。とはいえ、元々の混沌さを削ぎ落として読者に理解しやすい形で提示してしまうと、それは扱っている対象の実際を反映した論文にならず、過去を正確に伝えているとは言えないのではないか。こういうジレンマでしょう。

 もう少し言い換えると、古代以来の哲学というのはアリストテレスが用いた述語をさまざまな形で解釈しながら行われています。そのためある著作で行われている議論を理解は、その背景となる術語がたどってきた歴史や、その術語がその文脈ではどのような意味を与えられて用いられているかを念頭に置かないと不可能です。逆にこのような背景を踏まえて対象に当たると、実は混沌としているように見えた議論が実は非常に整然とした論旨を形成していたことが判明する場合があります。しかしそれを論文にする段になると、一からアリストテレスの術語や当時の状況などを解説する紙幅はなく、また実はそのような暗黙の前提というのは言語化するのが非常に難しいので、どうしても前提から丁寧に説明するのではなく、むしろ現代人でも理解できる形に咀嚼して提示するということを行ってしまいます。しかしこのような提示の仕方は扱っている対象を裏切っているのではないかと思うことがよくあります。

 いや、特に結論などはないのですが、これは困ったことだなといつも思います。