Suzuki, 兵頭晶子『精神病の日本近代』書評

  • Akihito Suzuki, "Review of Hyôdô Akiko 兵頭晶子, Seishinbyô no Nihon kindai: tsuku shinshin kara yamu shinshin e 精神病の日本近代 : 憑く心身から病む心身へ (Mental Disease and Japanese Modernity: From the Possessed Mind/Body to the Diseased Mind/Body)," East Asian Science, Technology and Society: An International Journal 4 (2010): 467-73.

 自分の書評を書き終えてからその水準の低さを実感するためにすぐれた学術的批判の見本を味わおうと思って読みました。次の本を評したものです。

精神病の日本近代―憑く心身から病む心身へ (越境する近代)

精神病の日本近代―憑く心身から病む心身へ (越境する近代)

 研究史の概観から話を切り出し、書評対象の本の主たる主張とその強みを指摘します。しかしそこからは厳しい批判が。著者の提示する歴史的変遷が残された史料からは十全には裏付けられないことを示し、さらに変遷として提示されている事態が本当に変遷として記述可能であるかについての十分な吟味がないと指摘します。

 私にとって分かりにくかったのは次の部分。

Is Hyodo arguing that groups interpreted the same set of symptoms differently? Or, is she arguing these groups used different sets of concepts for the same kind of social problems?

 兵頭は「キツネ憑きから精神病へ」という変遷があったと論じているけれど、それは同じ兆候が異なる仕方で解釈されるようになったということなのか。それとも同種の社会的問題が異なる概念を用いて論じられるようになったということなのか。これが明示的に述べられていない。

 たぶんこれが評者の言いたいことです。言葉を換えれば変遷というのは病状の解釈の水準で起きたのか、社会問題の解釈の水準で起きたのかということでしょう。

 私が医学史研究に明るくないため、ここで評者が立てている二つの選択肢のそれぞれがどういうことを含意しているのかよくわかりませんでした。つまり変遷が症状の解釈の水準のものなら、事態はこれこれこのように説明される可能性がある。一方で社会問題への解釈の水準でのものなら、事態はこのように説明されるだろう。たぶん評者にとっては上の二つの選択肢を示した瞬間にそれぞれがどのような帰結をもたらすかが見えるので、あえてその意味するところを書かなかったのでしょう。しかし私には上の二つの選択肢をこのような形で定式化するポイントが見えませんでした。

 うーん、うまく表現できないな。これとなりに鈴木さんがいれば聞けるんだよね(笑)。

些細な点

Echoing Foucault’s famous dictum about the emergence of the “person” as the subject of the discourse of power in the modern era, Hyôdô points out that the new criminal code shared with Taisho-era, psychiatry a focus on the “person,” whether as the basis for punishment or for controlling mental illness.

 Taisho-eraのあとのカンマがいらない気が。

But she deals with Meiji-era psychiatry of Meiji era under the heavy influence of Kraepelin, so this is a minor point.

 Meiji-eraがダブっている。