水車の出現と普及 「叢書アナール」刊行開始

叢書『アナール 1929-2010 歴史の対象と方法』 1 〔1929-1945〕 (叢書『アナール 1929-2010 歴史の対象と方法』(全5巻))

叢書『アナール 1929-2010 歴史の対象と方法』 1 〔1929-1945〕 (叢書『アナール 1929-2010 歴史の対象と方法』(全5巻))

 昨年末から藤原書店より画期的な叢書の刊行がはじまっています。題して「叢書アナール 1929–2010」。あの『アナール』誌から重要な論文を71本選び出し、それらを日本語に訳してしまうという企画です。論文の選定を行ったのはル=ロワ=ラデュリのような…つまりその人自体がいずれ歴史学の対象になるような歴史家です。

 昨年刊行された第1巻には1929年から45年までのあいだに出された13本の論文が収録されています。これにル=ロワ=ラデュリとビュルギエールによる総合イントロと、ビュルギエールによる第1巻への序文が付されています。ル=ロワ=ラデュリの文章は明らかに手抜きで残念な出来栄えである一方、ビュルギエールの導入は素晴らしい。特に掲載されている13本の論文について、その着眼点の独自性と、そこで生みだされた洞察がのちの調査にどのように生かされていくかを手際よく解説しています。

 選ばれた論文はどれも最高水準のものなので、特に私が論評する必要もないのですけど、ここでは一本だけ技術史に関係するマルク・ブロックの論文を紹介しましょう。「水車の出現と普及」というこの論文は1935年に掲載されました。ここで言われている水車とは製粉用の水車のことで、ブロックが問うているのは人力の回転石臼から製粉水車への移行がどのようなものであったのかというものです。いやむしろ移行などという言葉では尽くせない複雑な事態がそこに存在することを膨大な学識をもとに明らかにします。

 回転石臼が発明されたのは紀元前2–3世紀、製粉水車は紀元前1世紀となります。場所はそれぞれイタリア、オリエントではないかと推測されます。しかし生みだされた技術は即座に普及しませんでした。農業規模に対して人口が多かった古代ローマでは石臼をまわす安価な労働力、つまり奴隷(の女性)が利用可能であったため、製粉水車を導入する理由がありませんでした。

奴隷制大土地農業経営地の領主たちからすれば、市場でも家屋敷でも家畜まがいの人間がごろごろしているというのに、費用のかかる装置をわざわざ設置するいわれはまったくなかった。

この状況が変化したのが古代末期です。その頃には人口が減少に転じ奴隷の供給が途絶えがちになりました。そのため石臼をまわすための労働力が不足し、結果として製粉水車が日の目を見ることになります。

 「とはいえ、一気呵成に席捲したなどと思い描かないようにしよう」。製粉水車が石臼を全面的におきかえるということは起きませんでした。まず近くに川がない場所が世界には存在します。第二に川は凍結したりするので常に使える保証がありません。特に戦争となり敵に包囲された城にたてこもるとなると場内に石臼がないと餓死してしまいます。第三に軍や商人たちが移動する際に石臼を携行する習慣が広くいきわたっていたことがあります。

 しかし手回しの石臼が残存した最大の拠点は農家でした。初期の製粉水車は修道院や領主の所有物であることが多く、農民たちは自らの石臼を使い手で製粉を続けていました。10世紀以降領主が独占的利権の範囲を拡大していくなかで、製粉水車を領民に強制的に使用させる権利を領主が獲得します。この権利から効率的に利益を得るために、製粉水車を使わせるために各家庭にある石臼を放棄させなければならなくなりました。しかし「とりわけ農村部では、領主が何かと権力を振りかざして要求しても、なかなか農民は言うことをきかず、驚くほど頑迷固陋な彼らを抑えこむにはじっくり攻めつづける以外なかったにもかかわらず、たいていは根負けしてしまった」。

 石臼を廃棄させるためには仁義なき戦いが繰り広げられたようで、イングランドのとある修道院では「争いが昂じて、製粉機をめぐる一篇の壮大な叙事詩の域にまで達した」。この地域では1331年に没収された石臼が破壊され、修道院の床舗装の材料に使われました。その50年後…

そうこうするうち、1381年、ワット・タイラーとジョン・ボールの登場とともにイングランド社会に一大蜂起が起きると、熱に浮かされたセント=オールバンの領民は修道院を襲撃し、かつての屈辱の象徴である舗装を剥がし、もはや石臼としては使えないので、石を砕き、勝利と団結の証として「日曜日の祝別されたパンのように」破片を分かち合った。

このような争いは鉄と石炭の時代が幕を開けるまで続いていました。

 ここでブロックが考えていることは技術について考えるときに必ず頭に入れておかなければならないことです。ある技術はどのような特徴を持っているのか。その特性を発動させることを必要とする社会とはどのようなものか。その社会の中でそれを必要とするのはどのような人間集団なのか。それを使用することにどのような利害が関係しているのか。逆にそれを使わないということにはどのような利害が(経済的な利害であるかもしれないし心性的なものかもしれない)関係しているのか。こうして技術史を単なる発見とその(必然的な)伝播の歴史に還元することが拒否され、技術が社会の中で果たす役割を考察する道がひらかれます。

 しかしそれよりも何よりもこの論文の面白さに驚かされます。だって石臼と製粉水車の話ですよ。論述の明晰さ、膨大な調査の成果を圧縮しきったことから生まれるスピード感、そして極めつけはいたるところにあふれるおかしみ。おそらくすでにこの論文の知見は乗り越えられているのでしょう。しかしあるべき学術論文の一つの到達点としてまだまだこの作品は現役なのです。