科学者の共和国と王の庇護

 12月5日月曜日に駒場隠岐さや香さんによる講演会が開かれます。そのための予習として彼女の『科学アカデミーと「有用な科学」』を読みはじめました。17世から18世紀のパリ王立科学アカデミーを中心に、王権、官僚機構、司法体制、産業構造、人材育成製作、学問諸分野の再編成といった広範な関連領域の記述を重層的に重ねあわせて、社会における科学・科学者のあり方の変容を探ろうとする野心作であり傑作です。まずは第1, 2章を読みました(1–80頁)。ここではアカデミーの二重性を見事に取り出してみせた第2章を中心に。

 1666年に設立されたパリ王立科学アカデミーは専門領域での活動の他に、定期刊行物の前半部を「数学や自然学についてごくわずかで表面的な知識を持たない人々」に読まれることを前提にした科学の普及・啓蒙を目指した記事に当てていました。

 そこでアカデミーの終身書記たちが書いていたことから、当時のアカデミーがどのような理想を追求したかがうかがえます。1699年にフォントネルが定期刊行物に書いた序文では、科学は実用的な応用に結びつくという点で有用であるだけでなく、その「秩序、簡潔さ、正確さ」が人間の精神に良い影響を与えるという有用性も強調されていました。しかしこの後者の力点がありながらも、やはりフォントネルは実験科学が当時の教養層にいわばエンターテイメントとしてアピールすことを重視し、そこから絶え間なき実験活動を保証する王の庇護の必要性を唱えました。

 しかしこのようなフォントネルの理想の裏にはアカデミーを取り巻く厳しい環境がありました。収入は低くしかも支払いが滞りがちで、しかも競合する組織も現れはじめていました。このような状況でレオミュルが待遇改善を求める文書を発表します。そこで彼は資本投下の量を増やすよう要求するだけでなく、アカデミーのメンバーたちがその知見をいかして活躍できる公職を設立するように要望します。この要望はおそらく一定の成功をおさめ、アカデミーのメンバーたちは副業としての公職をえることでおのれの立場を安定させます。しかし事態はさらに進み国家の政策に仕える技能者が会員として流入することになります。ここにいたってアカデミーは才能ある個人が研究を行う場、国家に有能な人材を供給する場、国家から人材を受け入れて人的交流を行う場といった複合的な場所として機能することになります。

 王権との接近はアカデミーの脱政治的性格を揺るがすものとなりかねませんでした。これに際してメンバーたちも国家も、政策業務にアカデミーメンバーが加わるときはあくまで個人として選ばれているという体裁をとります。彼らは実質的にはアカデミー会員であることによって選ばれているのに。また実質的には国家権力からくだされている諮問でもアカデミー内部では極力権力者の肩書きや動機などを推測させないような議事の進行が行われます。このようにアカデミーの外では個人として活動し、内部では権力の介入はなきがごとくに行動するという、会員たちの振る舞いの二重性は、自由な研究活動の場であると同時に王権から認められ王権に仕える特権機関であるというアカデミーが当初から有していた二重性の反映でもありました。