アカデミー会員たちの政治参加

 いよいよ講演会の開催が週明けに迫ってきました。今日は第5章を中心に。

 1774年にトゥルゴーが財務総監に任命されます。このトゥルゴーにより行政システムが単なる官僚制から、専門家を政策立案に登用する「テクノクラシー」へと移行したと評価されてきました。その専門家供給のプールとなったのが科学アカデミーとされます。しかしすでに著者が再三強調してきたように、科学アカデミー会員はレオミュルの要望以来、副業として政権に入るときにはあくまで個人として採用されるという体裁をとっていました。この会員たちのアカデミーのうちと外を使い分ける姿勢を踏まえて、トゥルゴーの改革を検討するとどうなるのでしょう。

 トゥルゴーの政策として取り上げられるのは3つ。第一に家畜の疫病対策。第二に火薬硝石廠の問題。第三にピカルディー地下運河計画です。第一の事例は蔓延する家畜の疫病対策のために委員会を設け、その議長にアカデミー会員の解剖学者ダジールを選出し、調査と対策立案に当たらせたものです。ここではアカデミーがトゥルゴーからの求めに応じてダジールら委員を選出した経緯こそあるものの、実際の委員会業務はアカデミーとは独立に行われ、責任者のダジールも疫病調査の結果をアカデミーで発表することはありませんでした。

 第二の事例は新たに設立された王立火薬廠の管理者の一人にアカデミー会員のラヴォアジエが選出され、さらに硝石の製造法について科学アカデミーから懸賞問題が設けられたものです。ここでもラヴォアジエはあくまでアカデミーの外部の業務として火薬硝石廠の管理を行い、またアカデミーの硝石研究も外部から送られてくる懸賞問題への応募を審査するという迂回した形で行われていました。この意味でアカデミーは火薬硝石廠の領分と抵触しない限りのギリギリのラインで独立に硝石研究を行うように求められていたことがわかります。

 第三の事例は運河建設のための調査研究のための委員会としてトゥルゴーがコンドルセダランベール、ボシュをアカデミーを介さず直接任命した事例です。彼らの報告書は結局陽の目を見ることはありませんでした。しかしそれでも、医師ダジールのように行政と協同する伝統を持たない数学者たちが、ラヴォアジエのように行政の役職を与えられることもなく、あくまで数学者として行政文書としての報告書を執筆するにいたったことにトゥルゴーの改革がもたらした政権と学者の関係の変質をみることができます。しかしそれでもそれは数学者たちが個人として、不安定な存在である委員会(実際トゥルゴーが失脚すると実質的に消滅した)に置かれたという点で、あくまでアカデミー自体は行政案件からなるべく遠ざけるという姿勢が保持されていました。以上の3件から分かることは、「トゥルゴーを含めた啓蒙のフィロゾーフ達は、彼らの目指す目標を阻害する制度的要因をすり抜けつつ、いわば個人プレーを行ううちに時間切れ[=トゥルゴーの失脚]となった」ということです。

 むしろ大きな変化は続く財務長官ネッケルの時代に起こります。彼はパリの監獄の移転計画についてアカデミーに直接意見を求めました。この求めに応じてアカデミーは調査委員会を組織し、調査報告書を提出します。行政からの監獄移転という高度な政治問題に関する意見をアカデミーが提出するという異例の事態です。これに対してアカデミーが正式に上げた報告書は意見を出す分野を化学や医学に固有の問題にする禁欲的なものでした。しかしこの報告書作成とは別にアカデミーの集会で閲覧されていた覚書は、すでに政府が用意していた移設地の変更を求めるなど非常に過激な提言を含んでいました。このような文書を作成しながら、アカデミーは他の行政部署の職権を犯さないという従来からの規制を守り、正式な報告書においてはあくまでアカデミーの専門内部での慎重な提言を行うにとどめました。とはいえこの事例は、特定の科学的・社会的問題にいついて諮問を求められたアカデミーが大規模な調査委員会を組織して、報告書を作成するというモデルをのちに提供することになります。