文芸共和国から客観性へ Daston, "The Ideal and Reality of the Republic of Letters"

 まず二つの図像を比べよう。


 最初の図像はデューラーによって16世紀につくられたものである。二番目の図像は17世紀後半に描かれたものだ。前者で学者は一人書斎で孤独に思索し、執筆している。後者では知識人たちは顔をつきあわせ議論をしている。この対照は、16世紀から17世紀後半までのあいだに知識人のあり方(および彼らの自己像)に起きた変化を反映している。17世紀後半にはじめて、知識人が形づくる「文芸共和国 the Republic of Letters」が具体的な形をもって成立し、その重要性が強く認められるようになったという変化だ。

 本論文はこの新たな共和国に投影された理想とその実像を検証することで、共和国の成立が現代まで続く科学者像の成立に寄与していることを示すものだ。文芸共和国は無数の知識人を書簡網が結びつくことで成りなっていた。その書簡網は国境を超えたインターナショナルなものであった。この国際性は各種科学アカデミーの構造にもあらわれている。各国のアカデミーのうちに、他国の知識人がしばしばメンバーとしてくわえられていた。とりわけ知的生産性において後進地であると自認する場所のアカデミーにとって、著名な国外研究者を迎え入れることは、その地位を高める重要な手段であった。だが文芸共和国が掲げた最重要の理想はそのコスモポリタニズムではなく、むしろ宗教的寛容であった。各人の信仰のあり方とは無関係に優れた学術的成果をあげれば、それが評価されねばならないというわけだ。コスモポリタニズムも宗教的寛容さも完璧な形で実現していたわけではない。しかし所属する国家の違い、使用する言語の違い、抱いている信仰の違いを超えて、知識人同士が書簡を交わし合い、雑誌を通じて情報を共有し、共同のプロジェクトに参画するということはしばしば行われていた。

 パラドキシカルな関係が現象がみられたのはむしろ文芸共和国が林立する国家と共存していた点にある。優れた知識人や活発な科学アカデミーは、コスモポリタンな場所で評価されてこそ価値を持つ。一方で、そのような知識人やアカデミーを有することがなによりも国家の名誉とされており、だからこそ各国家はアカデミーを支援した。国家なくしてアカデミーはなかった。

 著者の議論がさえわたるのはここからだ。文芸共和国の普遍志向とそれを国家的名誉としようとする政府の欲望との関係はパラドキシカルにみえるが、実は名誉や評価を何が担保するかという観点からみると、両者のあいだに齟齬はなく、むしろ照応関係が認められるという。知識人個人のレベルでその名誉や評価がいかに判定されるかを考えよう。この時代の知識人たちは、知識人の価値を評価できるのは貴族ではなくいわんや大衆ではけっしてないと考えていた。評価するのはあくまで知識人でなければならない。だが同時に彼らは「率直に言って、分別をもって批判を行える知識人はまずいないし、批判に耐えられる知識人となるとますます少ない」ということも十分承知していた。知識人共同体というのは互いの競争によって成果を生みだすのだから、互いの評価に歪みがもたらされるのはほぼ必然である。本当に正当な評価は後世に委ねるしかないだろう。だが評価は今せねばならない。「いま生きている後世」というありえない存在が要請されているのだ。このありえない存在に最も近似的な存在とはなにか。それは評価されるべき人物と利害を持つことがきわめてありえそうにない知識人である。そのような知識人は評価対象の近くにはいないだろう。いるとすれば遠くである。国外である。こうして知識人をたしかに評価し、しかるべき名誉を与えるためには国外の知識人からの評価が求められることになる。同じロジックが国家的名誉の局面でも成り立つ。ある国家が抱える知識人や科学アカデミーが正当な評価によって優れていると認定されるためには、国家内部で国家権力の息のかかった者たちが互いにほめあっていては説得力がない。そうではなくここでもその国家と直接の利害関係を持つことが少ないと考えられる国外の著名な知識人や、アカデミーからの評価が決定的な参照項となる。こうして文芸共和国のレベルでも国家のレベルでも、正当な名誉を得るためには国外の評価を取り込む必要がある。コスモポリタニズムは二つの領域でともに要請されるのである。

 この名誉と評価の問題から著者はさらに議論を拡張していく。文芸共和国が所属する知識人を正しく評価し、正当な名誉を与えるような共同体であるためには、その内部ではホッブズ流の万人の万人にたいする闘争が行われなくてはならない。ピエール・ベールによれば、知識人は友人に、息子に、親に闘争を挑み、ただ真理にのみ仕えなくてはならない。このなかで知識人は真理に仕えることで業績をあげて自身に名声をもたらすという欲望を持ちながら、しかし他人の業績の評価においては無私であり公平でなければならないという分裂した存在であることが要請された。この困難がかつての孤独のうちで思索にふける知識人のあり方へのノスタルジアをかきたてることになる。そのような孤独を通してのみ、文芸共和国の本来の理想は達成可能なのではないか?

 だが他面、友人への考慮を捨て、家族への考慮を捨てた知識人のあり方はより深化していく。すでに18世紀の時点で同国の士をひいきすることは文芸共和国にとって有害であるという理念があった。ここで同胞への考慮が捨てられている。公正な批判者たらねばならないという理想は19世紀にいたるとついに科学者の自己へと向けられるようになる。科学者は自らにこそ最も強い批判をかけねばならない。探究活動からそれを行う科学者の自己は徹底して消去されねばならない。こうして科学者共同体による組織的なデタッチメントがはじまり、科学論文からは一人称単数の主語が排除される。この自己批判と自己消去こそが科学的客観性を担保するというわけだ。知識人たちが真に社会化(socialize)しはじめたそのときにこそ、その自己消去への契機が見いだされるのであった。