あまりに革命的な科学史 Porter, "The Scientific Revolution"

Revolution in History

Revolution in History

  • Roy Porter, "The Scientific Revolution: A Spoke in the Wheel?," in Revolution in History, ed. Roy Porter and Mikuláš Teich (Cambridge: Cambridge University Press, 1986), 297–316.

 「科学革命 The Scientific Revolution」なる術語についての古典的論文を読む。

 今日[1986年]、歴史家たちは、フランス革命産業革命を語るのと同じくらい自然に科学の革命について語っている。これら革命がどう語られてきたかの歴史をたどるといくつか興味深い事実がみいだされる。まず科学の革命について語りはじめたのは、フォントネルからコンドルセにいたるまでの啓蒙のフィロゾーフたちであった。彼らこそが、コペルニクスにはじまりニュートンまでの天文学と物理学の歴史を、過去より決別し、新しい時代を切り拓いた革命として理解しはじめたのである。もうひとつ興味深いのは、このようにまず科学の歴史に適用されてはじめて、革命という術語が今持っているような意味を一般的に持ちはじめたということである。たとえばそれ以前の政治的な revolution は、巨大な変化を意味していたものの、それは循環的な過程のなかでの一大変動であった([「変転」のような訳語が与えられるだろうか])。だが科学の革命が語られるようになって以降、政治のうえでの revolution もまた、不可逆的で進歩をともなう革命を意味するようになった。ちょうどニュートンの力学が、天文学と物理学に後戻りできない進歩をもたらしたようにである。

 科学が革命をともないながら進歩するという理解は、その後広い支持をえることになった。それにともない、科学史のあちこちに「革命」が指摘されるようになった。このような革命の増殖は科学史にとどまらず、他の歴史学の領域にもみられる。だが科学史は「科学革命」というディシプリンの名称を直接冠した単一の革命を想定するという点で特殊である。政治史や経済史に「政治革命」や「経済革命」があるだろうか。

 単一の科学革命(the Scientific Revolution)はしかし、その起きた時期(1543年から1689年?)にせよ、その内実(天文学と物理学?)にせよ、各論者のあいだで一致をみてきたわけではなかった。にもかかわらずこの言葉が多用されてきたことにはいくつかの意味がある。まず指摘されねばならないのは、科学革命という言葉は比較的最近つくられた術語だということである。それはおそらくアレクサンドル・コイレによって1939年に発案され、著作名としては Rupert Hall の『科学革命』(1954年)ではじめて採用されたのだと思われる。それ以前にはもちいられていない。マルクス主義の視点から書かれた歴史書にはあると思われるかもしれない。だがないのだ。

 科学革命という術語は、それを30年代末からもちいはじめた論者たちに特有の意味をもっていたと考えられる。彼らにとって科学革命とは単なる過去の出来事ではなく、「よい」出来事であった。それはなによりも観念上の転換であり、偉大な知性が自由に思考することによってもたらされたものであった。こうして思考の自由と学問の前進を結びつけることで、ヒトラースターリンによる思想統制をともなう全体主義とも、また冷戦中であれば物質にすべてを還元するマルクス主義とも距離をとった、西側民主主義の理念に適合した進歩のモデルを彼らは提出しようとしていた(とはいえ歴史上の発展段階を想定する点で、科学革命論はマルクス主義の歴史モデルと類似していた)。

 では、現在なお科学の歴史に革命を認めることは有効なのだろうか。まず単一の「科学革命」である。これについてはいかにさまざまな修正が加えられようとも、それによりヨーロッパの文化において科学に決定的な重要性を与えるにいたった出来事として、いぜんとして革命と呼ぶに値すると思われる。旧来の哲学がしりぞけられ、ニュートン流の自然哲学が、他の学問領域のモデルとして機能するようになった。神、自然、人間の関係は組みかえられ、自然は実験にかけ征服する対象として理解されるようになった。自然探求の重要性が認められることで、探求が行われる機関と、探求を行う人間の共同体が組織された。

 その他の多数の革命についてはどうだろうか。たとえばしばしば革命として語られる、19世紀に進んだ科学のプロフェッション化、相対性理論量子力学の出現、巨大科学の出現といった事例である。あるいは「19世紀における therapeutic revolution」や、「コペルニクス革命」、そしてチャールズ・ライエルが地質学にもたらしたとされる革命である。だがこれらは基本的には既存のあり方からの変化という漸進的な(gradual)ものとして理解されるべきだろう。一般的に科学史で革命が語られるさいに注意すべきは、17世紀の科学革命の成功により、ある科学的知見が大きく認識を前進させているかどうかの基準のひとつが、それがいかに「革命的」であるかを尺度とするようになった点である。

 ではなにが革命として残るのか。やはりラヴォアジエ(ら)の化学と、ダーウィンの進化論は、ある領域(化学)のあり方とか、同時代の生物に関する認識を根底的に変えたという点で、革命的であった。

 かつてコイレらが行ったように科学の歴史をもっぱら思考の歴史とみなすことはもはやできない。科学は社会的・文化的な要因と相互作用している。だが同時に科学が「不純」であると指摘するあまり、その活動から自律性を完全に奪いさってもならない。それは科学が現代社会をいかに形づくってきたかを巨視的な観点から考察するのを不可能にするだろう。この両極端にふれずに科学の歴史を探求することが求められる。