- 作者: Marianne Pade
- 出版社/メーカー: Museum Tusculanum
- 発売日: 2000/04/01
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- Eckhard Kessler, "Metaphysics or Empirical Science? The Two Faces of Aristotelian Natural Philosophy in the Sixteenth Century," 79–101.
分厚い研究の蓄積から大きなスコープのある見通しを示してくれる重要な論考です。アリストテレスの自然理解に2つの側面があり、これらが互いに調停不可能ではないかということはかねてより指摘されてきました。彼は一面では、変化や生成の問題を、それらが起こるためにはどのような前提がなければならないかということを見定めて、その前提条件を幾つかの概念に分節して提示するという手法をとりました。ここでは有名な質料と形相の話が前面に現れます。事物というのは質料と形相の結合体で、変化というのはこれまではなかったような質料と形相の結合のあり方が出現することだとされます。この手の考察は彼の『自然学』で主になされています。
しかしアリストテレスは他方で、物質がどのように相互作用することによって変化が起こるかとう観点からも考察をすすめていました。これは冷たい、熱い、乾いている、湿っているといった基本的な性質が互いに作用しあい、次第に複雑さを増していくことで、様々な事物が形成されるという考えを基礎にしています。これは『生成消滅論』や『気象論』の第4巻(ただしこれには擬作の疑いがあり)で展開されている議論の筋です。
この2つを接合するのがとてもむつかしいのです。最初のアプローチを解説するときに、アリストテレスは質料と形相は、それら自体は決して生成されることはなく、新しく生まれたり消滅したりするのは両者の結合体だけだと言いました。またこの結合体の生成や消滅は瞬間的になされるとも言っています。この瞬間的な質料と結合の結びつきとその解消は、果たして基本性質の相互作用(これは明らかに時間的なプロセスです)によってどうパラフレーズすることができるのでしょうか。この2つ、いわば形而上学的なアプローチと自然主義的アプローチをどう調停するかという問題はアリストテレス主義者たちの悩みの種となりました。
ここまでは実はアンネリーゼ・マイアーという中世自然哲学研究の権威が述べていることです。マイアーはこの袋小路からアリストテレス主義はついに脱却することはできず、17世紀の原子論にとって代わられることになったと結論づけています。それにたいしてこの論文の著者のケスラーは、いや形而上学的なアプローチを捨てて、純粋に自然主義的なアプローチをとる哲学者たちが16世紀初頭から出現していたのだと主張します。
自然主義的アプローチの出発点は1400年代の後半に起こったプラトン主義の復興に求められます。プラトン主義者たちによれば、アリストテレスは自然に関わる領域では権威であるが、神が関わる領域ではプラトンの方がより高次の認識に達しているのだと主張していました。これに対してとあるドミニコ会士は、確かにアリストテレスは感覚に基づいて行われる哲学の領域では権威だろう。だが彼とは異なりプラトンが神的な事柄にたいして特別な認識を有するわけではない。神に関する事柄というのは、啓示によって示されるもので感覚から出発する人間の理性によって到達できるようなものではないのだとしました。
この感覚の領域への哲学の封じ込めは、別の言い方をすれば感覚を超えた神学や形而上学の領域から自然学を分離させることでもありました。この方向に議論を進めたポンポナッツィは、感覚に基づく自然哲学を推し進め、その結果として上記の形而上学的アプローチを捨て去り、自然主義的アプローチをとります。実際に彼は『生成消滅論』に大きく依存した議論を展開することになりました。
この自然主義的なアプローチは特に医学教育を受けたものによって発展させられることになります(フランストロとカルダーノ)。これは医学の領域ではすでにこれ以前から自然主義的な思考が支配的でした。この傾向性は同じく医学の伝統の中で執筆活動を行っていたテレジオにおいて最高潮を迎えるとされます。
以上のような見立てをどう評価するべきか。Kesslerは「自然哲学の形而上学からの独立」に1500年代の哲学の革新を見てとっています。これは洗練の度合いを高めているとはいえ、基本的にはカッシーラーの「実体から関数へ」という歴史観によって規定された見方だと言えます。スコラ学的な実体形相の概念が廃棄されて、物質の相互作用から自然過程を説明する方向へと向かうというものです。ここからケプラーやガリレオを経て、自然を法則的に記述する近代の精密科学が生まれたとされます。
しかしこの見立てではとらえられない側面があるのではないでしょうか。たとえば生命体が日々行なっている自己複製を、どうやって形相のごとき種を規定する概念を措定せずに説明することができるのでしょう。ライプニッツはその有機体論で、なぜ生成というものは実際には起こっていないと言ったのでしょう。これが形相は生成も消滅もしないというアリストテレスの言明の言い換えでないとしたらなんなのでしょう。
カッシーラー流の見立てが歴史のある側面に光をあてる強力なツールとなることを認めながらも、それとは違う視角から1500年代の哲学を検証するということが求められているように思えます。それは上記の2つのアプローチのうちで形而上学的なアプローチの伝統に焦点を当てることになります。あえてカッシーラーの言い方を借用すれば関数ではなく実体に、つまりは実体形相に執着する必要があるということになります。
関連文献
- 作者: エルンスト・カッシーラー,須田朗,宮武昭,村岡晋一
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- 発売日: 2010/05/11
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