学問観の変容とアリストテレス主義の分岐 Lohr, "Metaphysics and Natural Philosophy as Sciences"

Philosophy in the Sixteenth and Seventeenth Centuries: Conversations with Aristotle

Philosophy in the Sixteenth and Seventeenth Centuries: Conversations with Aristotle

  • Charles H. Lohr, "Metaphysics and Natural Philosophy as Sciences: The Catholic and the Protestant Views in the Sixteenth and Seventeenth Centuries," in Philosophy in the Sixteenth and Seventeenth Centuries: Conversations with Aristotle, ed. Constance Blackwell and Sachiko Kusukawa (Aldershot: Ashgate, 1999), 280–95.

 アリストテレス主義研究の大家による論文を読みました。同じ著者が『ケンブリッジルネサンス哲学の歴史』に寄稿した大論文を要約したものになっています。中世までの学問(science)というのは、新事実発見のための調査研究というよりも、既に疑いえないと確立された一定の原理から確かな結論を引き出すプロセスを指していました。このプロセスにのっとって哲学と神学をアリストテレス哲学の枠組みの中で追求したのが中世スコラ学です。これに対してルネサンス以降、アリストテレス主義とキリスト教哲学の不一致が新たにもたらされた他の哲学学派の学説を土台にして言い立てられるようになります。これによってアリストテレス主義は分裂しました。

 分裂の一つの方向性は、カトリックの修道会に属する人々がとったものです。彼らは原理からの確かな知識というアリストテレス的学問観を維持します。しかし同時にその根っこにある原理自体はアリストテレスとは独立に確立できるのではないかと考えました。こうして学問から引き出される結論とキリスト教教義との両立を彼らははかろうとしたのです(キリスト教アリストテレス主義)。

 イタリアの大学にいる哲学者たちは、アリストテレスキリスト教徒の調和に大きく心を砕きませんでした。神学よりも医学に大きな関心をいだいていた彼らは演繹的な学問観から離脱し、経験的事実から出発する帰納的な学問観(これも実はアリストテレスにはある)に傾きました(世俗的アリストテレス主義)。

 ルター派神学者たちはさらに別の道をだどります。彼らは原理から学問を立ち上げるというよりも、神学的諸教義相互のあいだに論理的関係を見出し、それを整理することに心を砕いていました。それと同時に、ソッツィーニ派への対抗といった要請から、神学的な教えを理性的に証明することの必要性が自覚されることとなります。こうして自然神学の重要性が増しました(ルター派アリストテレス主義)。

 カルヴァン派では神の認識に至るための自然神学の重要性がルター派における以上にクローズアップされることになりました。ここにおいて、形而上学を二つの領域に分けることがおこなわれます。すなわち第一哲学(あるいは存在論 ontologia)の領域には存在一般を扱う学問が置かれ、それとは別に自然界の認識から霊的認識に至るための自然神学が措定されたのです(カルヴァン派アリストテレス主義)。

 カルヴァン派はまたあらゆる学芸をつなげ整理しようとしていました。彼らにとって学問とは整序された知の集積だったのです。このため従来学問の出発点とされていた原理がその性質を変化させます。疑いえない公理的原則以外にも、一度きりの経験、たとえば聖書に記されているような出来事もまた学問の出発点となりうるとみなされるようになりました。歴史の中で人間が蓄えてきた知識の総体が学問の対象と見なされるようになったからです。この整序のための運動から「システム」という言葉が使用されるようになります。システム化された万学を包摂する知の体系という営みは、三十年戦争によって途切れてしまうものの、その伝統は後の百科全書へつながることになります。