中世形而上学の変容 Lohr, "Metaphysics" #2

The Cambridge History of Renaissance Philosophy

The Cambridge History of Renaissance Philosophy

  • Charles Lohr, "Metaphysics," in The Cambridge History of Renaissance Philosophy, ed. Charles B. Schmitt and Quentin Skinner (Cambridge: Cambridge University Press, 1988), 537–638.

 Lohrの続きです(584–605)。今回は彼が静的と形容する形而上学が主題となっています。

 12世紀にアリストテレスの著作の翻訳が流入すると、神学者たちは自分たちが携わる分野をアリストテレス哲学で基礎付けようとしました。彼の哲学は事物の本質を固定的に考える点で、神学者たちの階層的な世界観に適合的でした。また知識は感覚から出発するという彼の主張は、感覚を超えた問題(たとえば神の本性)については啓示が必要であるという立論を可能にするという利点を有していました。そこで神学者たちは信仰箇条を公理に見立てて、そこから帰結を導くことで、神学をアリストテレスがいうところの論証的学問の一つとして成り立たせます。ここで信仰箇条が公理として用いられている点は、そのような信仰箇条を定める聖職者の特権を温存することも意味しました。

 この神学を支えたのは、主としてアクィナスとスコトゥスが築き上げた形而上学存在論)でした。トマスは形而上学は神を除く全存在の原理を考察するものと考えました。そこでは神は存在としてではなく、存在の原因と考えられます。そのため彼の形而上学体系では神についての知識を得るためには、啓示神学にうったえる必要があるとされました。たいしてスコトスの形而上学は、神をも含めた全存在を扱う学問として形而上学を定式化しました。それにより形而上学は、物体を扱う自然学とは独立される強い自律性を有する学問分野となります。ただしそこで扱われる神は啓示で知られるような三位一体の神ではなく、(有限な被造物にたいする)無限の存在者としての神として把握されました。

 このような形而上学に対抗するような思想傾向も現れたものの、最終的に1431年よりはじまったバーゼル公会議教皇の至上権が確認されるとトマスへの回帰が起こります。神の本性を知るためには啓示が必要と考える彼の形而上学は、聖職者の特権をよく温存するものとみなされたからです。同時にそれは世俗的学問の領域の自律性を認めながらも、神学とその他の学問に共通する形而上学存在論を措定しています。この共通の地盤ゆえに、世俗的学問で出された結論が神学的に問題あるとされた場合には、教会の権威でそれを排除することができることとなりました。こうして神学者が世俗学問を一定程度コントロールできるようになります。

 16世紀初頭に起こった霊魂の不死性をめぐる論争というのは、このようなキリスト教の学説や世界観や社会構造を色濃く反映した北方のアリストテレス主義が、イタリアの世俗的アリストテレス主義と衝突したものとしてとらえられます。実際教会サイドが問題視していたのは、霊魂の不死性の否定そのものというよりも、ポンポナッツィら世俗的アリストテレス主義者による哲学的結論が神学的結論とは異なるものとなりうるという立論でした。この立論が攻撃されたのは、それが哲学と神学にある共通の基盤を掘り崩し、結果的に教会による世俗学問のコントロール不能にするものだったからです。

 この世俗的アリストテレス主義との衝突に際して、ドミニコ会神学者たちがとった戦略は、アリストテレスを捨ててでも学問の形而上学的基礎を守ろうとするものでした。彼らによれはたしかにアリストテレスによれば霊魂は可死であるものの、正しく論証を行えばその不死性を証明できると主張しました。こうして全存在を扱う形而上学は、いぜんとして諸学の基礎として機能させられます。しかしアリストテレスが放棄されたことは、結果的に物体を扱う自然学もまたアリストテレスの枠組みから離れて論じられることを可能にしました。「ガリレオのはるか以前から、自然哲学は自らの道を自由に進めるようになっていた」。