パンとぶどう酒のうちのアリストテレス Leijenhorst, “Place, Space and Matter in Calvinist Physics”

 初期の宗教改革者たちの多くはスコラ哲学を嫌悪していた。しかしプロテスタントたちが自らの神学教義を武器にカトリックプロテスタント内部の他宗派と戦う必要が生じると、神学教義に関連する語彙を正確に定義し、自身の教義を整備せねばならなかった。そこで彼らはアリストテレス哲学を大学に再導入する。そうして生まれたアリストテレス主義は、中世スコラ学の単なる継続ではなく、プロテスタント諸宗派の神学上の要請に応えるかたちで変容をこうむることになった。

 本論はプロテスタント神学上とくに大きな論争点となっていた聖餐式解釈をめぐる立場の違いが、場所と質料という伝統的アリストテレス主義の概念の再解釈をいかにもたらしたかを検証するものだ。とりわけカルヴァン主義者たちが、ルター派の聖餐理解をを反駁した局面が注目される。ルター派の解釈では、キリストの身体は複数の聖餐式の場のそれぞれに同時に存在している。この遍在論を彼らはアリストテレスの場所理解にしたがって正当化した。アリストテレスによればある物体の場所とは、その物体を囲む境界のことである。すると最外の天球は何にも囲われていないので、それは場所のうちにない。これは物体はかならずしも限定された場所のうちになくてもよいことを意味する。このような物体としてキリストの身体は理解できる。よって遍在できる。

 アリストテレスに沿ってキリストの身体の偏在を主張するルター派にたいして、カルヴァン派は様々な方策を用いて対抗した。ペトルス・ラムスはアリストテレスの場所概念を不合理としてしりぞけた。彼は代わりにプラトンによりながら、場所とは三次元の空間にほかならないとした。すると最外天の議論は無効となる。すべての物体はやはり場所のうちになくてはならない。キリストの身体も同じである。それは遍在できない。

 対照的にバルトロメウス・ケッカーマンはアリストテレスをしりぞけなかった。彼はむしろアリストテレスの場所理解に独自の解釈を与えることで、アリストテレスにもとづいたキリストの身体の遍在論を拒絶した。ケッカーマンの師であるClemens Timplerは、パドヴァの哲学者であるザバレラの理解をひきついで、質料には必然的に量という性質がともなうとした。この主張から、キリストの身体はパンとぶどう酒のうちに実在するものの、量をともなう延長は有していないというカトリックの聖餐理解は否定される。ここではザバレラの世俗的アリストテレス解釈が、カルヴァン主義者による反カトリックの議論に活用されている。

 最後にヨハン・ハインリヒ・アルシュテッドは、中世以来の想像上の空間(spatium imaginarium)とスカリゲルの場所=空間論に依拠しながら、場所というのは物体によって占められている空間であると論じた。この主張は明示化こそされていないものの、やはりルター派の偏在論への反論の意味合いがあったものと考えられる。

 以上で見てきたような宗教改革後の宗派対立から生まれた新たな場所理解、質料理解は現在の哲学史研究では重要視されていない。しかしアルシュテッドの想像上の空間をめぐる理論をホッブズが活用していることを念頭に置けば、その重要性は再評価されねばならない。16世紀後半から17世紀初頭にかけての宗派間で練りあげられた理論を、ホッブズはまったく世俗的な世界観のうちにとりこんだのである。この意味で宗教改革後の自然哲学の変容は、近代物理学の成立を理解するための鍵を握っているのである。