本についての本とEncyclopedia Blair, Too Much to Know, ch. 3後半

Too Much to Know: Managing Scholarly Information before the Modern Age

Too Much to Know: Managing Scholarly Information before the Modern Age

  • Ann M. Blair, Too Much to Know: Managing Scholarly Information before the Modern Age (New Haven: Yale University Press, 2010), 160–72.

 Blairの本の第3章後半を読みました。「本についての本」とEncyclopediaというジャンルが扱われています。17世紀のはじめ頃から印刷された図書館の図書目録というジャンルが現れます。ライデン大学は1595年に、ボドレー図書館は1605年に目録を出版しました。

 文献目録(bibliography; 当初はbibliothecaとかlibrariaとか言われていた)は古代、中世にも存在する伝統的ジャンルでした。最初の印刷された文献目録は、1494年にトリテミウスが出した『教会の著述家たち』(これ)で、彼が活動していたドイツの地の作者を重点的に扱っています。1545年にゲスナーが出版した『世界書誌』は、ラテン語ギリシア語、ヘブライ語で書かれたあらゆる書物を網羅しようというプロジェクトであり、3,000人の著者の10,000冊の著書がアルファベット順に列挙されていました。そこで彼は時と場所によって何が読まれ、何が忘却されるかはわからないのだから、書物を忘却から救うためにはすべてを記載するしかないのだと述べています。彼のプロジェクトに続き、その他の(たとえば俗語を対象にした)文献目録が出されるようになり、17世紀半ばには文献目録の目録が出版されました(これ)。

 出版者たちは投資を回収するために自分たちの販売目録を印刷しはじめます。1564年からフランクフルトブックフェアのカタログはラテン語とドイツ語で出された新刊書の情報を掲載し始めました。これらのカタログは1592年に統合され、書物を収集するために用いられました。17世紀半ばに到るまで基本的にカタログには本の値段は書かれていませんでした。その情報は直接買い手に伝えられていたのです。カタログに網羅的に値段が書かれるようになるのは1668年以降のことでした。故人の本をオークションにかけた際にもカタログは作成されました。最初のオークションは1596年にオランダで行われ、最初のカタログは1599年に認められます。イングランドではオークションは1676年から、フランスでは1700年頃から行われるようになります。オークションのカタログから故人の蔵書が正確に分かるわけではありません。遺族が売りたくない本を抜き取っている可能性もありますし、逆にオークションを担当する書籍商が売りたい本を蔵書リストにもぐり込ませる場合もありました。書籍のカタログは別の新しいカタログをつくるための基礎となったり、本を分類する基準を構築する基礎を提供したりしました。

 17世紀の終わりごろからは雑誌が生まれ、そこには多くの書評が含まられるようになりました。書評というジャンルが広まるとほぼ同時に、読まずに書評しているのではないかという批判も見られるようになります。雑誌にはしばしば総合インデクスが付され、集積された情報へのアクセスが容易になるよう工夫されました。ドイツでは近刊書を専門に扱う書物が盛んに出されました。ダニエル・ゲオルグ・モルホフの『ポリヒストル』はその典型です(初版はこれ)。中には匿名や偽名で出された書物の著者を同定することを目指した書物もありました(1708年版の第1巻はこれ)。

 初期近代におけるencyclopediaという単語は様々な意味で使われています。グレゴル・ライシュが『哲学の真珠』(1593年;これ)には、「全学芸の最も完璧なcyclopaedia」という副題が付され、各分野の内容が要約されています(それらの関係性を示したダイアグラムもある。これ)。アルシュテッドの『Encyclopedia』(1630年;これ)は、encyclopediaという名前が付された最初のリファレンス書でした。彼もライシュと同じように各分野の内容の要約とそれらの分野の相互関係を(ライシュよりはるかに大規模)に行っています。しかし彼のようにあらゆる知の領域を体系的に整理したフォーマットで提示するというスタイルは後継者を産みませんでした。むしろ、以後の百科全書は整理した情報をアルファベット順に列挙するという方向に向かうことになります。