初期近代の図像ネットワークとゲスナーの戦略 Kusukawa, "The Sources of Gessner's Pictures"

 初期近代の図像入り書籍をあつかった傑作論文を読む。断片的な手がかりをつなぎあわせ450年まえの知的世界のありようを復元していく著者の手さばきは、読む者をして探偵による謎解きの場面を目のあたりにしているかのような興奮をおぼえさせるだろう。

 題材はコンラード・ゲスナーの『動物誌』である。この書物には大量の動物の彩色された図像が含まれている。この図像がどこから採られたかの探求が本論文の主題となる。論述のハイライトは図像のソースをめぐるある奇妙な重複に著者が気がついたことからはじまる。ゲスナーのソースのひとつはJohannes Kentmannという人物が所持していた動植物の図像群であった。Kentmannはこれらをゲスナーに貸与し、ゲスナーはそれを画家に複写させて『動物誌』に収録している。このKentmannの動植物図像群がヴァイマールの図書館に残っている。それとゲスナーの書物とを突きあわせるとひとつの事実が浮かびあがる。ゲスナーの書物の図版のなかに、Kentmannの図版とほぼ同一でありながら、Kentmannに情報源が帰されていないものがあるのだ。それらの図版はすべてCornelius Sittardusという人物からの情報にもとづいているとゲスナーは述べている。そこでゲスナーがSittardusに帰している図像をチェックすると、それらのほぼすべてがKentmannのコレクションと一致するのだ。

 なにが起こっているのだろう?なぜKentmannのコレクションとゲスナーがSittardusに帰している図像群は一致するのか?またゲスナーがそのうちの大半をSittardusに帰し、Kentmannに帰していないのはなぜなのか?

 歴史学での作法にならうなら、KentmannとSittardusが共通のソースからそれぞれ図版を複写していたのではと推測できる。そうすると浮かびあがるのが、当時アムステルダムに居住していたGisbert Horstiusという人物である。残された史料からはKentmannがHorstiusの家を訪れ、図版を写していたという事実がわかる。SittardusもまたHorstiusと親交があったことが確認される。おそらくこういうことだ。Horstiusは珍しい動植物の絵を多く所有していた。彼はそれらを自分の家を訪れた人物たちが写すのを許していたのだ。いや、訪問者が画家を雇って絵を写させるのをHorstiusは許していたというのがより正確だろう。

 だがこれですべてが説明されたわけではない。ゲスナー本人もHorstiusを知っていたのだ。『動物誌』のなかでもいくつかの図像のソースがHorstiusに帰されている。ゲスナーはSittardusやKentmannの図像がHorstiusに由来することも知っていただろう。それなのになぜ彼は大元のHorstiusではなく、むしろSittardusにおおく図像のソースを帰しているのか?しかもこのときなぜSittardusでありKentmannでないのか?

 ここで補助線として、ゲスナーが古代にしられていなかった動植物にどういう基準で名前をつけていたかを参照せねばならない。彼はその動植物を発見した人物にちなんだ名前をつけていた。しかしこの「発見した人物」というのは、それをじっさいに最初に発見した人物ではない。むしろその発見を最初にゲスナーに伝えた人物であった。そうすることで彼は自分に最初に情報を伝えてくれた人物にむくいていたのだ。なぜそのようなことをしたのか。それにより各地の人間がすすんで自分に情報を提供してくれるようになることを期待してである。

 図像のソースの帰属においてもゲスナーは同じ戦略をとっていたとかんがえられる。Sittardusの図像はたしかにもとをたどればHorstiusのものであった。しかしその図像をゲスナーに供与してくれたのはHorstiusではなくSittardusであった。ゲスナーがむくいるべきは「第一発見者」であるHorstiusではなく、自分への第一報告者であるSittardusであった。これがSittardusがくりかえし情報ソースとしてあげられている理由である。

 こうして残された断片的な手がかりから、さまざまなことが明るみにだされた。当時自然誌を実践していた人物たちは、おおくの図像を有する者の家に赴き、そこで画家をつかって図版を複写させていた。450年ほどまえに図像をめぐって知識人たちが形成していた情報共有ネットワークの実態の一端はこのようなものであった。自然誌の書物を書くものはだれでもこのネットワークを活用せねばならなかった。そのときにゲスナーという人物はどのような戦略をとったか。それは図像ネットワークの大元の人間ではなく、自分と直接のつながりを形成してくれた人物を著作でクレジットするというものだった。この基準は、ネットワークから流れこむ情報を最大化するための戦略であった。最後にではこの戦略の意味とはなんであったか?ゲスナーは古今東西の実在も架空もふくめてありとあらゆる動植物の情報を集成した書物をつくろうとしていた。一人の人間がそのような包括的な情報を自分で集めることは不可能である。だから彼は彼の意図を達成するために、情報のネットワークを最大限活用せねばならなかった。ゲスナーがとった戦略は彼が抱いた野心的プロジェクトに駆動されたものだったのである。

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