ブリティッシュ・ノミナリズムの存在論的前提

西洋哲学史 4 「哲学の現代」への回り道 (講談社選書メチエ)

西洋哲学史 4 「哲学の現代」への回り道 (講談社選書メチエ)

  • 乗立雄輝「オッカムからヒュームへ」『西洋哲学史 IV 「哲学の現代」への回り道』神崎繁熊野純彦、鈴木泉編、講談社、2012年、35–111ページ。

 パース、ジェイムズ、ホワイトヘッドというアメリカの実在論者たちによる、オッカム、ロック、バークリ、ヒュームというブリテン島の唯名論を奉じる哲学者たちへの評価を糸口に、後者のグループが共有する存在論的前提を取り出そうという試みです。以下では論考を一度読んだ方が参考にする用に、その骨子を抽出することを目指しました。これだけ読んでも内容の把握は不可能ですので、未読の方はぜひ論文を手にとって読まれますよう。

 パースとジェイムズのプラグマティズムは認識の根底に習慣(habit)を措定します。この習慣の重視という点で彼らはヒュームに依拠します。しかし特にパースは習慣についてヒュームと対照的な見解をとっていました。ヒュームにとって習慣化というのは心のなかだけで起こるものであるのにたいして、パースは「宇宙の諸法則は、一切のものが一般化と習慣獲得へと向かう、普遍的な傾向性のもとで形成されてきた、という仮説」を抱いていました。習慣の及ぶ範囲を心に限定するヒュームの学説の原型はオッカムにあります。オッカムは可知的形象という形而上学的存在者の導入を防ぐと同時に、人間の知性認識のあり方を説明するために習慣という概念を用いました。これは因果的結合というこれまた形而上学的存在者を排除するために、習慣を用いたヒュームと同種の思考経路をたどっていると言えます。

 ではなぜオッカムやヒュームは形而上学的存在者を排除しようとしたのか。この理由もアメリカの実在論者たちの言明から見えてきます。実在論者たちは「関係」の実在性を認めないという理由で唯名論を批判します。確かにたとえばロックは複数の事物のあいだの関係とは知性作用の産物であり、外界に実在性を持つものではないと考えました。この考え方の原型もまたオッカムに見いだされます。彼は関係というのは心の外にはないとみなしていたからです(ただし三位一体の場合は例外)。オッカムは関係をはじめとするアリストテレスの諸カテゴリーのうち、実体と性質以外から実在性を剥奪しようとしていました。これら以外のカテゴリーが存在するかに見えるのは言語の表象能力によるものだというのです。この実在しているかに思われるものの実在性を言語の能力をテコにして剥奪するということは、オッカムの単純代表の学説と、バークリとヒュームの代表説がともに行っていることです。この点でもオッカムの前提が彼らに引きつがれていることを見てとることができます。

 しかしブリティッシュノミナリズムは決して一枚岩であったわけではありません。ホワイトヘッドによると、ロックはヒュームより形而上学的に優っており、それはロックが観念(idea)という語を広範に用いているからです。後にヒュームやバークリに批判されることとなるロックの「観念」概念は、実はビュリダンの可知的形象に近いものでした。そのビュリダンといえば、オッカムが排除した可知的形象を再導入することで、オッカムすら認めた性質というカテゴリーの実在性を否定し、実在性を実体にだけ認めるという志向性を秘めた理論を提唱していました(しかしビュリダン自身は最終的には性質と量のカテゴリーを認めている)。ロックの思想が示すビュリダン哲学との並行性が教えてくれるのは、ロックもまた性質をうちに取り込んだ新しい実体概念を創出しようとしていたということです。彼らは双方とも、オッカムの剃刀が切り落とした形象を認めることで、実体一元論を構想しようとしていたと言えます。この意向は中世の形象に当たるロックの観念が、ヒュームやバークリの剃刀により切り落とされることで、ブリテン島のノミナリズムからは追放されます。ロックの存在論を継承したのは、『人間知性論』からその名称が引き出された記号論を提唱したパースでした。