ローマの太陽信仰 小堀「古代ローマの太陽神」

太陽神の研究 (下巻) (宗教史学論叢 (8))

太陽神の研究 (下巻) (宗教史学論叢 (8))

  • 小堀馨子「古代ローマの太陽神 帝政期前半を中心に」松村一男、渡辺和子編『太陽神の研究』下巻、リトン、2003年、151–167ページ。

 帝政期ローマで皇帝崇拝が行われており、その際に皇帝が太陽神とされることがあったことは、なんとなく聞いたことがある人もいると思います。しかしどういう経緯でそんなことになったのでしょう。この疑問を解消するためにいくつかの論文を読みました。今日紹介するのはそのうちの一本目です。ローマの太陽神崇拝について調べるならまずはここからでしょう。

 王政期のローマで太陽神が崇拝されていたという考古学的証拠はありません。信憑性の認められる記述史料にも崇拝の証拠は見いだせません。共和制期に入ると太陽神崇拝の痕跡が認められるようになります。しかしイタリアのその他の都市に比べるとローマでの太陽神の存在感は薄いものでした。またこの時点では太陽神は常に対となる月の神とセットで崇拝されていました。共和制末期の混乱期に伝統的な祭儀の存在感が低下します。同時にバビロニア占星術(太陽は星々を支配するとされる)が流入し、東方の専制君主制度(王は神の化身とされた)との接触機会が増大すると、太陽神への関心が高まります。既存の太陽神崇拝が強化され、ローマの有力者と太陽が結びつけられはじめます。帝政期に入っても、初代皇帝アウグストゥスは太陽神に重きをおいていました。後86年には月とは独立に太陽神が崇拝されていたことを示す碑文が残されています。太陽神がマイナーな神格を脱して、高い地位を得るにいたっていたことが分かります。

 伝統的な太陽神崇拝の存在という土壌の上に、2世紀の五賢帝時代以降東方の太陽神が導入されます。シリアのエメサには太陽神エラガバルの神殿があり、シリア出身者たちは都市ローマで太陽神崇拝の礼拝を行っていました。ハドリアヌスマルクス・アウレリウス・アントニヌスコンモドゥス帝の治世下では、東方的な「不敗の太陽神 sol invictus」信仰がローマで広まり、ハドリアヌス帝のように太陽に擬されることを好む皇帝も現れました。コンモドゥス暗殺後の混乱を経て帝位についたセプティミウス・セウェルスは、シリアの太陽神神殿の大神官の娘と結婚していました。彼のシリアを重要視する政策と、妻とその姉妹による太陽神導入奨励策により、シリア由来の太陽神信仰は、ミトラス教の太陽神崇拝と肩を並べるほどの人気を誇るにいたりました。

 ヘリオガバルス帝はついにシリアの太陽神エラガバル崇拝をローマの国家的最高祭儀とする改革を行うに至ります。しかし218年に帝位についた彼は222年には暗殺されてしまい、文書から名前が抹消されるという「記憶の断罪 damnatio memoriae」の刑に処されることとなりました。こうしてしばしのあいだ太陽神崇拝は国家祭儀の場から姿を消すことになります。