討論の場におけるカルダーノとスカリゲル Leinsle, "Wie treibt man Cardano mit Scaliger aus?"
- 作者: Martin Mulsow
- 出版社/メーカー: De Gruyter
- 発売日: 2009/11/16
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- Ulrich G. Leinsle, "Wie treibt man Cardano mit Scaliger aus? Die (Nicht-)Rezeption Cardanos an der Jesuitenuniversität Dillingen," in Spätrenaissance-Philosophie in Deutschland 1570–1650: Entwürfe zwischen Humanismus und Konfessionalisierung, okkulten Traditionen und Schulmetaphysik, ed. Martin Mulsow (Tübingen: Niemeyer, 2009), 253–77.
思想の歴史では「誰々の著作が広く読まれた」というような記述がよくなされます。この種の言明の根拠は多くの場合、著名な哲学者が当該著作に言及している例がいくつか認められるということにあります。この基準はある作品の伝播と受容の度合いを見積もるのに大きな手がかりとなるものの、一握りのとびきり優秀な層で全体を代表させていることは否定できません。そのような特殊な著述家の影に埋もれてしまっているけれど、しかしその著述家が当該作品を手にとる条件を整えた無数の名も知られぬ読者層の存在があるはずです。彼らはどうやってある作品を読んでいたのか。この問いにこたえるのに有効な史料の一つが、大学に残された討論(disputatio)の記録です。ある時期のある大学での討論の内容を検討することで、当時そこでどのような本がどのように読まれていたのかを明らかにできます。そこから今では忘れ去られた様々な学生たちの読書と思考のあり方を浮かび上がらせることができます。しかしこの手の記録は当該大学の資料室にしか残されていなく、刊本として広く出回ることもないため、アクセスが難しく、そのためそれを対象にした研究は少ないのが現状です。
この論文の著者はドイツのディリゲンデン大学の哲学科で1555年から1648年のあいだに行われた討論の記録を網羅的に検討するという気の遠くなるような作業をやりとげ、その成果を2006年に大部の著作として刊行しています。今日取り上げる論文は、その成果からカルダーノとスカリゲルの著作がどう読まれていたを示す史料を抽出し、両者の受容の特徴を明らかにするものです。従来カルダーノの受容はフランスの自由思想的傾向を持つ人物たちにおけるもの、スカリゲルの受容はドイツのプロテスタント哲学者たちにおけるものを中心に調べられてきました。それに対しここでは1563年よりイエズス会の管轄となったディリゲンデン大学に焦点を当てることで、カトリック圏での両者の受容のあり方を検証しようとしています。
まず図書館に残されたカルダーノの『精妙さについて』を見るなら、それが大幅に「浄化」されていることが分かります。たとえば悪魔、天使、知性、神を扱った19巻から21巻は切り取られています。メランヒトンの名前が黒塗りにされていたり、彼を「学識ある人」と形容する文句が消されています。性欲の扱いについて述べた部分には「注意 cave」と書かれています。カルダーノが存命中から異端審問に呼び出されたり、『精妙さについて』がさまざまな禁書目録に載せられていたことから考えるにこれは納得のいく処置です。一方、スカリゲルの『顕教的演習』には修正が施されていません。彼のたとえば『詩学』などが禁書となったことはあっても、『演習』にそのような断罪が下ったことはなかったことを考えれば、これも自然なことです。
このようにして浄化されたカルダーノと、カトリック的に問題ないと判断されたスカリゲルをディリゲンデン大学の学生たちは読み討論に利用していました。彼らの利用を検証するといくつかの特質が分かります。まず彼らは鉱物が生きているとかアリストテレスの元素論は誤りであるとかいうようなカルダーノの革新的な理論は拒絶しました。この拒絶の際にスカリゲルのカルダーノ批判が引かれることもありました。しかしスカリゲルとて批判されなかったわけではなく、彼がアリストテレスに反することを論じていると判断された場合は、その学説がしりぞけられます。
とはいえ基本的に両者の著作にある形而上学的前提に関わる箇所はそれほど大きな関心を集めていません。むしろ多くの学生はそのような箇所の扱いはほどほどにして、自然哲学に関する事実を収集するためにカルダーノとスカリゲルの著作に当たっていたように思われます。カルダーノの『精妙さについては』、もはやかつてスカリゲルが行ったようにその全体を問題にすべきようなものではなく、自然知識の宝庫としての百科事典的性格を持つようになったわけです。
ただし理論に関わる興味深い受容のあり方を示している箇所もあります。それはカルダーノの著作が、自然魔術が引き起こすとされていた現象を、自然学的でアリストテレス主義的な枠組みで説明しなおすために用いられていることです。これは1579年から1616年に魔女狩りがディリゲンデンで行われていたこと無関係ではないでしょう。オカルト質によって引き起こされるとされていた現象を自然主義的に説明することで、魔術の領域を浄化し、正統なスコラ学の枠組みに回収することが目指されたのです。
関連書籍
- 作者: Ulrich G. Leinsle
- 出版社/メーカー: Schnell & Steiner
- 発売日: 2006/08/14
- メディア: ハードカバー
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